ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/10/08
唐では袋物の形で身分を表した
『大唐皇帝陵展図録』は、太宗の子、第3代皇帝高宗李治とその皇后則天武后の合葬陵-乾陵は、海抜1048mの独立峰である梁山を陵体として造営された。
南門から乳台までの神道の両側には神道石刻列がある。
昭陵に始まった山陵制度は、乾陵で事実上の完成をみた。高宗が埋葬されたのは文明元年(684)、則天武后が追葬されたのは神亀2年(706)で、20年以上の年月を経ている。その間も陵園の整備は続けられ、則天武后の意向が多分に反映されたのであろうという。
その神道彫刻は写真で紹介されていた。その中にはベルトの方形の巡方から丸い袋物を提げたものがあった。どうも蕃酋長たちは袋物を腰から提げる習慣があったらしい。
蕃酋像佩用品 長方形箱物 唐、乾陵南神道 石刻
箱形容器は算木・発火具・砥石等を納める容器と考えられているという。
小さな箱物に見えるが、これらの道具が収まりよく作られていたのだろう。箱物にも縦にベルトが通っていたのだろうか。
蕃酋群像 乾陵南神道
乾陵の南門と門闕の間には、計64体の石像が東西に32体ずつ4列8行に並び、神道を挟み対峙して配置されている。背面に刻まれた銜名(王朝社会における職名・氏名・民族名など)から、唐王朝が領土拡大した際に支配下においた少数民族の長の像であることが判明しており、蕃酋像(蕃臣像)と名付けられている。
その着衣は、胡服など民族衣装を着用したものが少なくとも4体確認できるが、大半は唐王朝において文武官人が出仕する際の常服を着用する。
帯は丸鞆や巡方が付いた銙帯で、細帯(跕蝶帯)を介して佩用品が垂下されている。このような常服と銙帯から器物を吊り下げる風俗は、西方騎馬民族に起源が求められ、隋代以降の官人の服飾に取り入れられたものと考えているという。
西方騎馬民族とはどの民族をいうのだろう。墓主がソグド人と思われる棺床屏風の門闕(北周、6世紀後半、MIHO MUSEUM蔵)にも胡人が右の腰に袋物を提げた姿が浮彫されている。門の前で左手で太刀を支えながら立っているので、護衛の任務についているのだろうが、その袋物がこの蕃酋群像が腰から提げているものとよく似ている。
唐代の衣服規定は、官位の上下関係を一目瞭然とするために、衣服の色・銙帯の種類・垂下できる品目を階位ごとに細かく決めており、蕃酋像におけるこうした組み合わせと垂下位置は規定に従う階位表現となっているという。
ということは上の蕃酋長たちは同じ官位にあった者たちで、丸い袋物を提げた蕃酋長は官位が異なっていたようだ。馬牽きと同じ形の袋物を提げているので、あまり高い官位ではなかったかも。
乾陵六十一賓王像
『図説中国文明史6隋唐』は、唐の高宗がなくなったとき、61人の近隣諸国および辺境少数民族の首領たちが長安に来て葬儀に参列した。則天武后は大唐帝国の威厳を誇示するため、特に石工に命じて彼らの姿を彫らせ、乾陵の朱雀門の両側に置いたという。
以前は上の写真とは別の場所に置かれた写真があった。以前にテレビで見た時もこのように首のない王像がまとめて置かれていたように記憶している。そう言えば、新聞の記事に、皇帝陵が観光目的の整備が進んでいるというようなことを読んだ気がする。
この写真からは最前列中央の賓王像の袋物だけが識別できる。
蕃酋像佩用品 たて長半円形袋物 唐、乾陵南神道 石刻
たて長半円形袋物・刀子・手巾は細帯が長く膝頭より低く垂下されている。
たて長半円形袋物は既知の絵画資料に認めることができず、いまのところ乾陵蕃酋像にのみ確認できる佩用品であるが、『旧唐書輿服誌』に記す「鞶嚢」である可能性が高い。鞶嚢の帯紐は「二品以上金縷、三品以上銀縷、五品以上綵縷」と規定されており、蕃酋像においても彩色で区別されていた可能性があるという。
ベルトの方形の巡方から長い帯紐が通され、その先端が袋物の開閉に用いられている。簡略した線刻ではあるが、山東省清州市傳家村の墓(北斉、550-577)より出土の囲屏もしくは石槨の商談図の胡人が下げる袋物と、形や帯だけでなく、上蓋があるところなどそっくりだ。この胡人は髪の毛がカールしておりソグド人ではないと見られている。中央アジアよりも更に西からやってきた人のようだ。
遅くとも唐になると、袋物の形が身分を示すものとなった。こんな小物が意外と重要な役目を負っていたのだ。
それにしてもこの中には一体何が入っていたのだろう。こんなに長いと馬に乗ったらぶらぶら揺れて邪魔だったのでは。
面白いことに、日本の古墳に副葬されていた革袋がこの蕃酋長の提げていた袋物に似ているという。
漆塗り革袋 飛鳥時代、7世紀末葉 1999-2001年葛城市三ツ塚古墳出土 高16.8㎝幅17.5㎝厚さ10.0㎝ 橿原考古研究院蔵
改葬骨を納めた70X50㎝ほどの木櫃の隅に置かれており、改葬墓の副葬品であったと思われる。有機素材の上に漆が塗布された製品で、木櫃が腐朽する前の段階から穏やかに内部へ土砂が浸入していたため、袋はもとの形状をほぼとどめている。
その形状は、本体から延びる一辺が覆いかぶさって蓋となるポシェット状のもので、蓋をとじる帯紐が付く。縦断面形は正面が丸くふくらみ、背面は平坦であるという。
高さや幅の割に厚みがあり、ころんとした形で、背面の上の方にも帯紐を通す金具がある。前側だけでは安定しないだろうなとは思っていた。
三ツ塚古墳出土の革袋に比べて蕃酋長たちが右腰に提げたものはかなり平たい。ひょっとすると革製ではなく、錦などの布製だったかも。
※参考文献
「平城遷都1300年記念春期特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「図説中国文明史6隋唐 開かれた文明」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社