2009/03/24

春秋秦の雍城出土の鍑が最古?


サルマタイやスキタイより以前に鍑をつくった民族があるのだろうか。「鍑」という漢字から殷・周の青銅器から探してみたがみつからなかった。ところが、妙なところから鍑が出土していることがわかった。

ふたつの耳をもつ鍑 高19.4㎝直径18㎝ 春秋戦国時代 陝西秦都雍城出土 陝西省文物考古研究所蔵
『図説中国文明史4秦漢』は、棫陽宮(よくようきゅう)の遺跡から出土した宮殿の置き物。「鍑」は炊事用具の一種で、鍋のようなものという。
秦が中国を統一するずっと以前に都のあった雍城から出土したものらしい。置き物というのは珍しい品だからだろうか。

しかし、春秋戦国時代(前770-222年)というのはあまりにも幅があり過ぎる。
徳公元年(前677)秦、雍城に遷都、最初に大鄭宮(だいていきゅう)を建設
献公2年(前383)秦、櫟陽に遷都

とあるので、この間に製作あるいは他の国からもたらされたものだろう。
ところが、鍑が出土した棫陽宮(よくようきゅう)は秦の昭襄王(前306-251)が建てた宮殿という。そうすると、孝公12年(前350)に咸陽に遷都した後に雍城に棫陽宮殿を建てたことになってしまう。そのようなことが実際に行われたのかどうかわからないので、この鍑は雍城に都があった前677-383年の間に作られたものとしておこう。

把手に一つずつ釘状の頭状の突起があるのはサルマタイの鍑に似ているが、中国の青銅器のように、肩に帯状の文様がある。 


文様も中国風なので、中国の青銅器と比較してみよう。

山西省太原市金勝村251号墓出土 春秋後期(前6-5世紀) 山西省考古研究所蔵
『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、口縁下と下腹部に施された虁鳳文帯に挟まれて、中央に獣面文帯が巡る。虁鳳文および獣面文にはそれぞれ細かい文様があるという。
このように、春秋後期になると、文様の中に凹凸のある小さな文様を施すという複雑な作風になってしまう。螭文甗(ちもんげん) 春秋中期(前7世紀) 泉屋博古館蔵
『泉屋博古中国古銅器編』は、上の甑と下の鬲が分離するタイプの甗。文様は甑・鬲とも、肩部にS字形の双頭有舌螭龍が二重に絡んで構成されているという。
下の鬲の帯文様によく似ているので、雍城出土の鍑は春秋中期につくられたものかも。螭文三足匜(ちもんさんそくい) 春秋前期(前8-7世紀) 泉屋博古館蔵
口縁下の文様帯は、注ぎ口側付近にS字状双頭螭、中央にS字状単頭螭を配し、その間を鱗文などで埋めるという。
この三足匜の帯文様よりも、雍城出土の鍑は文様がしっかりとしている。これらから、雍城出土の鍑は春秋中期(前7世紀)に作られたとみてよいのではないだろうか。尚、春秋時代の前・中・後期の分け方は『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』による。 

『図説中国文明史4秦漢』は、秦人(しんひと)は東夷族(広く東部沿海に住む異民族を指す)から分かれた一派で、黄河下流の東部沿海で遊牧していたともいわれています。
殷代(前16-11世紀)、秦人は何回かに分けて甘粛省東部に移ってきて、殷王朝と同盟関係をもっていました。当時、秦人は牧畜業を主要な産業としていた。
前16世紀から前7世紀にかけて、秦は3度にわたる東への大規模な移動を経て、西戎の地から今の陝西省内にある西周のかつての本拠地に移ってき
たという。その西周の本拠地に、雍城は位置している。
そして、秦人の出自は東夷という。最初に中国を統一したのは秦なのに、何故中国人を秦民族と呼ばずに漢民族というのか不思議だったが、やっとわかった。
また、秦人は遊牧民だったので、遊牧民に受け継がれてきた儀式に必要な鍑が雍城から出土しても不思議ではなかったのだ。雍城出土の鍑が前7世紀のものだとすると、スキタイの鍑(前5-4世紀)よりも古い。
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、鍑は紀元前9世紀から8世紀頃に作られ初め、初期騎馬遊牧民の時代にはユーラシア草原地帯のあらゆる場所で使われるようになったという。 
鍑を最初に作ったのが殷・周以来の中原の人々でなかったとしても、秦が、あるいはもっと中原に近い漢族が、遊牧民の影響を受けて鍑をつくるようになったのかも。
とりあえず、私の知る範囲では現存最古の鍑はこの雍城出土のものである。

※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」(稲畑耕一郎監修 2005年 創元社)
「図説中国文明史3 春秋戦国 争覇する文明」(稲畑耕一郎監修 2007年 創元社) 
「泉屋博古 中国古銅器編」(2002年 泉屋博古館)
「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」(2000年 小学館)
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」(2002年 NHK)