2009/03/03

慶州天馬塚で出土した金製附属具は内帽の揺帯?


天馬塚では金冠の他にも附属具とされるものが出土した。中央の16個は金冠からはずれた歩揺かも知れない。外側の歩揺のついた細い金線が、瑞鳳塚の金冠についていた鳳凰飾りを支える内帽形の骨格を作る揺帯に似ている。
しかし、その間にある角の輪郭のようになっているものはわからない。遼寧省憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠を支える揺帯に似ているような気がする。 『世界美術大全集東洋編3』は、石槨墓の墓主・憑素弗は、十六国の一つ北燕(407~436)の王馮跋の弟であった。北燕は、鮮卑系の後燕を継いで漢民族の将軍・馮跋が建てた王朝であり、都とした龍城(遼寧省朝陽市)は北辺、契丹などの遊牧民の地であった。馮氏の出自と政策ゆえに漢文化への傾斜が強かったようだが、地勢、時勢、ともに外界からの刺激にさらされていたという。
憑素弗墓出土の金歩揺冠に似たものが、同じ遼寧省より出土している。

金製歩揺付冠飾 遼寧省房身2合墓出土 遼寧省博物館蔵
『日本の美術445』は、房身2号墓では方形冠飾のほか、木の葉形の歩揺を金板に着し、いかにも聖樹を連想させるような金製冠飾とやはり歩揺付の金製帯板が出土しているから、三点一具をなして一つの冠を形づくっていたようであるという。 
形は似ているが、瑞鳳塚出土の金冠の歩揺飾のように頭頂部を飾るものではないようだ。同墓出土の方形冠飾はこちら 内蒙古自治区からも、歩揺飾が出土している。

鹿角馬頭形歩揺飾 3-5世紀 高19.5㎝幅12㎝ 1981年内蒙古自治区烏蘭察布盟達爾罕茂明安聯合(ダルハンムミンガン)旗西河子出土 内蒙古自治区博物館蔵
『中国☆美の十字路展図録』は、金の鋳造で複雑に分岐した角をつける馬頭を作り、耳の輪郭及び鼻柱や角などを金の細粒で装飾し、石やガラスを象嵌している。角の先端につけられた桃形金葉の輪郭は刻点連珠文装飾の効果を出している。これは一組の冠飾の内の一つで馬頭形及び牛頭形飾が各々一対ずつ発掘された。辺境から匈奴の故地へと導いた鮮卑の始祖神話の神獣は馬に似、声は牛に似ると伝えられるが、これらはそのような神獣の辟邪祥瑞の意味合いを担っていたのであろう。金の桂枝や獣形をつけた冠飾(歩揺)付の冠は後漢書にも見られるが、イラン系遊牧民族起源と考えられる。晋書には歩揺冠を好んだ鮮卑族慕容部の人々は歩揺と呼ばれ、これが訛って慕容部の名前となったと伝えられるという。牛頭形飾はこちら
歩揺付の冠がイラン系遊牧民の起源とすると、その人々の居住地区はシベリアだったのだろうか?また、鮮卑族のうち北魏を建国したのは拓跋部だが、他にもいろんな部族があったようだ。中国から見れば東北部に、朝鮮半島から見れば西方に居住していた鮮卑族は慕容部だが、歩揺からその部族名がついたとは知らなかった。  『日本の美術445』は、いずれも4世紀中葉から5世紀初頭に比定される遺品であり、6世紀前半の武寧王陵王妃棺出土冠飾に先行する黄金製冠飾の北方作例として注目される。
特に房身2号墓からは3件の冠飾のほか、多岐にわたる黄金製品が副葬されており、古代鮮卑族の墓であることから、鮮卑族の黄金尊重のさまが偲ばれるとともに、黄金文化伝播の役を担った北方遊牧民達の活動の実体が彷彿とさせられる
という。
武寧王陵出土の方形金製冠飾はこちら

これらは樹木形や鹿角形というシベリアのシャーマニズムの要素を持っているが、新羅式金冠ほどの大きさはない。ずいぶんと簡便になっているとも見えるが、それは鮮卑族の好みだったのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」(2000年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「中国☆美の十字路展図録」(2005年 大広)
「日本の美術445 黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)