2007/05/18

大山崎山荘のこんなところにタケノコが



大山崎山荘美術館はどういう美術館か。パンフレットは、山崎の合戦で名高い天王山の南麓に位置する大山崎山荘は、関西の実業家、加賀正太郎(1888-1954)によって、大正の初期から昭和の初期に建てられました。加賀はイギリスのチューダー様式をもとに別荘として自ら設計しています。その後、山荘は加賀の手を離れ、平成に入って荒廃が著しく、京都府、大山崎町の住民をはじめ心ある人々から、その保存が切に望まれていました。アサヒビール(株)の樋口廣太郎(当時社長)は、京都府の要請に応えて山荘の修復整備を進め、既存の木材や建具等をそのまま利用、修理補修しながら、建設された当時の姿を取り戻しましたという。

昨年は「大山崎山荘の10周年記念展」ということで、本館にはアサヒビールの初代社長で民藝運動の支援者であった山本爲三郎氏のコレクション(つまり民藝派)の各作家の作品が展観されていた。

そのコレクションは同美術館ホームページ山本コレクションと民藝運動でどうぞ

建物の内部写真は、同美術館ホームページ建物その1-本館でどうぞ

廊下を進んで最初に入ったのが、本館のページで右一番下の写真にあるガラス窓で囲まれた部屋で、蘭がたくさん展示されていた。その一番奥に、パルミラの石彫「饗宴図」(写真は同館で10周年記念ということでもらった絵葉書より)が置かれている。2人がクッションにもたれて盃を持ち、1人がその横に腰掛けているのだが、その人々の衣服・クッション・下に敷いてある布団状のものにも精密に文様が浮彫されている。菱形花文に円花文そして草文も。そして、続いて入った各部屋の至るところにも装飾が施されていた。パルミラの石彫はその「つかみ」だったのか?建物の装飾を見て回るのも楽しかった。こちらにアカンサス文様、あちらは唐草文様というように。

2階まで見て回った後、一緒に行った友人が「どこかにタケノコの装飾があったはず」と探し初めた。1階まで戻って、同ページ右2つ目の部屋(シロクマの敷物は今はなく、陳列台が置かれている)に戻ると、友人は暖炉に近づいていった。ここは暖炉前の鉄製の装飾や、上にある漢時代の画像石(馬車行列に見えた)そして暖炉そのもののタイルを見たのだった。
 友人はかがんで、その画像石と暖炉上部の台の間をのぞき込んだ「あった!あった!」(暖炉の写真の白矢印)。前に来たことがあると言っていたが、よくここまで見ていたものだ。おかげで私も珍しい装飾文様を目にすることができた。
ところで、タケノコですが、今年はなにやらタイミングが悪く、実家の山に出るタケノコを思う存分食べることができなかった、残念。