2006/09/28

法隆寺金堂天蓋から2 莫高窟の窟頂を探したら


敦煌莫高窟の隋時代(581-618年)の窟頂を見ていると、法隆寺金堂天蓋と同じような二段の小札形垂幕と逆二等辺三角形の垂幕が流行していたことがわかる。
この時期の石窟は伏斗式方形窟である。『敦煌への道 上西域道編』は、正方形のプランに4つの台形の平面を合わせた截頭方錘形の天井をのせるタイプで、天井の中心部には、正方形の格天井をつくっている。この類型は中国の四注造り(寄棟造り)建築の内陣を石窟に移したもので、時代によっていくらかの変化はあるが、敦煌における主流をなすものであるという。下図は同書の晩唐様式の伏斗式方形窟である。

隋時代にはこの窟頂の格天井の周囲に2列の小札形垂幕と逆二等辺三角形の垂幕が描かれているのだ。その起源は何だろう。

北周末隋初とされる第301窟の天井にも同様の装飾がある。小札形の2段の垂幕は、1つ1つの大きさがばらばらで、逆二等辺三角形の垂幕はその先端に付いた丸い点が錘ででもあるかのように下に引っ張られているようで、これらはまるで、実際の垂幕を写したもののように見受けられる。

北周時代(557-581年)とされる297窟は小札形垂幕は1段であるが、前述の301窟と同じような描き方だ。藻井にはラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)が表されている。西魏(535-557年)の285窟には小札形垂幕はなく逆二等辺三角形の垂幕が2段となっている。藻井内にはラテルネンデッケが表されている。
同じく西魏時代のもう1つ249窟の天井には垂幕というものが小札形も逆二等辺三角形も見あたらない。藻井にはラテルネンデッケが表されている。
西魏時代が垂幕装飾の上限なのだろうか。その前の北魏(386-534年)の窟には垂幕は描かれていないようだ。ということは、西魏の時代にこの法隆寺金堂天蓋に繋がる装飾が現れたと言って良いのではないか。
しかし、これは敦煌莫高窟に限っての話である。他の建物や石窟を見ずして結論して良いものだろうか? 

関連項目

天井の蓮華

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社 
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社