ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/01/23
三十三間堂2 雷神のギザギザ眉の起源
三十三間堂は南北に長く、堂内の北の端で雷神が南のはしでは風神が、千一体の千手観音を護っている。その姿形は鎌倉時代らしく迫力がある。
雷神像 鎌倉時代・宝治年間(1247-48) 105㎝
『三十三間堂の佛たち』は、その起源はインド最古の聖典という『リグ・ヴェーダ』に水神として登場するヴァルナだといわれる。ヴァルナは、のちに雨や水を司る龍神と混同され、さらに下って天候を司る雷神へと変化したという。後6世紀の制作という敦煌莫高窟の壁画に風神と共に描かれたのが最古というが、古代人の水に対する恩恵と畏怖心がこのような神格を生み出したのだろう。
『千手陀羅尼経』にでる「水雷火電」の語句から日本中世の俗信的空想によって創作した尊容という。巻雲に乗り、天鼓を打つ姿態は怒りととも大笑ともみえるという。
古来より魔除けとして音をたてるということが行われてきた。下方にいる魔物を雷太鼓を打ち鳴らすことで威嚇しているのだが、その音よりも、この形相に恐れをなして、敵は退散するのではないだろうか。
見開いてにらみつける玉眼が怖い。怒りで膨れあがった瞼、更に上のギザギザの眉が見る者に恐怖を増幅させる。
しかし、ギザギザの眉は他の像でも見たことがあるような・・・
それは興福寺の国宝館に展示されている龍燈鬼だった。
龍燈鬼
龍燈鬼の眉は青銅製かな、緑青が浮いている。取りつけ金具が幾つか見える。
龍燈鬼立像 鎌倉時代・建保3年(1215) 桧材 寄木造 像高77.8㎝ 康弁造 興福寺西金堂旧蔵
『興福寺』は、西金堂須弥壇前面に安置されていた像で、四天王像に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照す役目を与えた。
龍燈鬼像は腹前で左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらむ。像内に建保3年に法橋康弁が造ったとする書きつけがあるという。
慶派の仏像には内部に作者の署名のあるものがある。そのおかげで、この龍燈鬼が、三十三間堂の風神雷神像よりも以前に制作されたことが確認できた。
龍燈鬼が邪鬼からできたものならば、そのギザギザの眉も四天王が踏みつける邪鬼に起源があるのでは。
幸い興福寺には四天王像が何組か残っている。
四天王像の邪鬼 鎌倉、文治5年(1189) 康慶作 木造 南円堂旧蔵 興福寺中金堂蔵
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、一乗寺本の南円堂曼荼羅図などに描かれた四天王とポーズや細部の形式までも一致することから、本来南円堂に安置されていたことが判明した。南円堂の諸像は康慶工房が文治4年から翌5年にかけて造営したが、四天王像については「南円堂御本尊以下御修理先例」という記録から、工房内の実眼が担当したことがわかる。ゆったりとした構えや、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、たとえば、治承2年(1178)の東大寺持国天像など、12世紀後半の奈良仏師の作例とよく似ている。しかし、量感のある堂々とした姿は迫力がみなぎっており新時代の感覚が十分にうかがえる。また、彩色も制作当初のものがよく残ることも貴重である。なお、瞳に玉を嵌める手法は南円堂の本尊・不空羂索観音像とも共通するという。
邪鬼はいずれも飛び出したような真ん丸い目に表されているが、眉はそれぞれ全く異なっている。
増長天の邪鬼の眉は鬚と同じように、盛り上がって細かな凹凸があるが、ギザギザではない。
持国天の邪鬼の眉はあまり明確には表されておらず、多聞天の邪鬼は顔さえ写っていない。
広目天の邪鬼の眉は、目玉がシベで、その周囲の花びらのようだが、見ようによっては、ギザギザ眉の原形かも。
中金堂の四天王像についてはこちら
ひょっとして、康弁はこの広目天の邪鬼の眉からギザギザの眉を思いついたのだろうか?
四天王像邪鬼 平安時代(9世紀) 一木造・乾漆 興福寺東金堂蔵 国宝
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、治承4年(1180)の平重衡の兵火で東金堂が焼け、再興された後に別の寺院から移された。4体のすべてが残るが、それ以前の伝来についてはよくわかっていない。少し寸の詰まった短軀の像で、そのために横幅が広く、奥行もあって迫力みなぎる表現である。頭部から邪鬼まで、頭体の主要部を一本のヒノキから作り、像内の内刳を作らない全くの一木造。材の重さを感じさせる。一木造の隆盛したこの時期を代表する四天王像の秀作である。
また同時に頭髪や甲冑の一部、あるいは邪鬼の表面に乾漆を盛り上げて造形していることが注目される。顔や衣の襞の表現も木彫像でありながら乾漆的な粘り気のある表現である。作者は奈良時代に流行した木心乾漆の技法をよく知る工人であったことを思わせるという。
やはり目は真ん丸だが、上図の中金堂のものよりは自然な表現になっている。眉は形はそれぞれ異なるものの、小さな凹凸があり、ギザギザではない。
写真には写っていないが、広目天の邪鬼の眉もギザギザではないことを。東金堂後室特別公開で、間近で見て確認してきた。
東金堂の四天王像についてはこちら
四天王像の邪鬼 平安、延暦10年(791) 木心乾漆 大安寺伝来 興福寺北円堂蔵 国宝
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、北円堂の八角須弥壇の四方の隅に立つ四天王像である。四天王のうちの増長天と多聞天の台座の框裏に墨書きがあり、四天王像がもと奈良の大安寺に伝来し、延暦10年(791)に制作されたことと、興福寺の経玄得業が鎌倉時代の弘安8年(1285)に修復したことがわかる。奈良時代終わりから平安時代はじめの時期の仏像は、制作時期の不明のものが多いが、その中で時期がわかる貴重な作例である。
粗彫りした木の上に厚く木屎漆(木屑と漆を混ぜたもの)を盛り上げて整形している。140㎝に満たない像であるが、下半身は安定しており持国天や多聞天では筋肉が隆々としている。広目天のみが少し口を開けて歯をのぞかせ他は閉じる。その中で、持国天の大きく見開いた目は瞳が飛び出さんばかりで、誇張的な表現がユーモラスな味わいを見せているという。
増長天の邪鬼の眉はギザギザではなく、粒状のものが並んでいる。ほかの邪鬼の眉も、形はさまざまだが、ギザギザではない。
北円堂の四天王像についてはこちら
奈良時代のものはどうだろう。
増長天像の邪鬼 奈良時代、天平宝字8年-天平神護元年(764-765) 金銅 像高約2m 西大寺四天堂蔵
『日本美術15天平彫刻』は、西大寺は不幸な寺である。この四天王像すら満足に残ってはいない。現在四天堂安置の四天王像は、貞観2年(860)、文亀2年(1502)の二度の火災で銅肌のひどく荒れた邪鬼に、またかろうじて多聞天の胸部に、天平末年の造形表現を手さぐりするしかない。踏みしかれた邪鬼の苦悶がみせる苦渋面(グリマス)が、思わずユーモラスな表情となり見る者の微笑をさそうが、筋肉の起伏構成に天平後期仏師の造形感覚を追感しうるにすぎないという。
焼けただれても、太い眉のギザギザはよくぞ残ってくれたというしかない。
四天王像の邪鬼 西大寺四王堂蔵 重文
『日本の美術456天平の彫刻』は、天平宝子8年(764)藤原仲麻呂の乱の戦没者供養のため、称德天皇の願いで造営が開始された西大寺四王堂の四天王像の足下に踏まれた邪鬼。翌天平神護元年に鋳造をはじめ、同年10月頃までには完成をみたか。鋳造にはかなり苦心したとも伝えられる。この四天王像の造立は、物部守屋追討を願って発願された聖徳太子による四天王寺金堂本尊の故事にならうものであり、天皇の太子信仰を知る上で貴重な遺品といえる。またその邪鬼の諧謔的な風貌に『別尊雑記』所載の図像で知られる四天王像の投影をみることも可能であるという。
この眉もギザギザかグリグリのような。
『別尊雑記』の四天王寺像は見つけられなかった。
四天王像邪鬼 奈良時代(8世紀) 塑造 東大寺戒壇堂
東大寺戒壇堂の四天王像も邪鬼を踏みつけていた。
それぞれの邪鬼が個性的に表現されているが、ギザギザの眉のものはいない。
邪鬼とその上に乗る四天王像についてはこちら
持国天立像の邪鬼 奈良時代(8世紀) 脱活乾漆 東大寺法華堂
東大寺法華堂にも四天王像は残っている。
『古寺をゆく5東大寺』は、四天王はもともと古代インド神話中の神々で、仏教に取り入れられ、仏法を守護する尊格として四方を守る。法華堂でも、高さ約3mの脱活乾漆の大きな像が須弥壇の四隅に安置されている。
持国天像は、右手に三叉戟を取り、州浜にうずくまる邪鬼を踏まえるという。
髪はギザギザだが眉はぼうぼうである。
広目天と多聞天の邪鬼
わかりにくい画像だが、それぞれ顔や髪型は異なっても、眉は持国天の踏みつける邪鬼と同じである。
広目天は2匹の邪鬼を踏んでいるが、あまり例がないのでは。
持国天と広目天の邪鬼 白鳳時代(645-710) 脱活乾漆 四天王像うち 當麻寺金堂
どちらも丸顔で、眉はギザギザではない。
當麻寺の四天王像についてはこちら
四天王像邪鬼 飛鳥時代(7世紀) 木造 法隆寺金堂
これまでみてきた四天王像の邪鬼は、それぞれが顔も姿勢も異なっていたが、日本に残る最古の邪鬼は、両手がそれぞれ何かを支えているように造られており、そのためか4匹とも姿勢は同じである。顔はさまざまで、増長天の邪鬼は大きな角が1本生えているし、持国天の邪鬼は牛頭のようだ。それでもギザギザ眉のものはいない。
法隆寺四天王像についてはこちら
お隣の韓半島でも四天王像の邪鬼にギザギザ眉は見つけられなかったし、唐の龍門石窟では、奉先寺洞北壁の天王像の邪鬼(上元2年、675)も、極南洞(中宗期、705-709)の天王像の邪鬼も、こんな眉ではなかった。
ということは、三十三間堂雷神のギザギザの眉のモデルになったのは興福寺龍燈鬼の眉である可能性は高い。
鎌倉時代に康弁は龍燈鬼をつくる際に、青銅板を切ってギザギザの眉としたのだが、それは同じ興福寺にあった、現在は中金堂に安置されている広目天の邪鬼(平安時代)が持っている花びらのような眉にヒントを得たのかも。
また、盛唐後半期(8世紀半ば)の石彫に通じるとされ、鑑真渡来時に同行した仏工の作とみられる(『鑑真和上展図録より』)四天王像のうち、増長天の邪鬼がよく似た眉をもっているものの、後補とのことである。
それについてはこちら
三十三間堂1 風神雷神の像← →三十三間堂3 風神雷神の起源
関連項目
三十三間堂4 風神雷神その後
当麻寺金堂の四天王は髭面
国宝法隆寺金堂展には四天王像を見に行った
慶州石窟庵(ソックラム 석굴암)の仁王像と四天王像
※参考サイト
日本建築史研究所松谷洋氏の社寺建築逍遥の蓮華王院本堂
※参考文献
「三十三間堂の佛たち」 2011年 妙法院門跡 三十三間堂
「興福寺」 興福寺発行
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術
「日本の美術15 天平彫刻」 杉山二郎 1967年 至文堂
「日本の美術456 天平の彫刻 日本彫刻の古典」 浅井和春 2004年 至文堂
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「當麻寺冊子」 当麻寺発行
「古寺をゆく5 東大寺」 2010年 小学館
「国宝法隆寺金堂展図録」 2008年 朝日新聞社