ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/08/30
中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細
今回根津美術館で開催された「中国の古鏡展」では秦時代になると地文の繊細さが際立っていた。
同展図録は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに 様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多いという。
地文は驚くほど精密につくられているが、非常に浅浮彫のため、主文様を邪魔しない。
細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点と渦文。そして渦文と渦文の間には、Z字形のようなものが。これは渦雷文と呼ばれる円形渦の左右に三角渦を組み合わせた地文(同展図録より)という完成された文様になっていく、前段階のものかも。
細文地龍鳳文鏡 秦時代 径14.0㎝重200g
極細線で菱形に区画されたなかに渦巻や小珠点を充填した地文をもつという。
菱形の区画は割合に大きなもので、中央に大きな渦巻が4つあり、そこから小さな渦巻が2つ出ているもの、一つだけのものなど一定していない。大小の渦巻の隙間を小珠点が埋めている。
この区画は、ひょっとすると鉤連雷文を簡略化したもの?
細文地狩猟文鏡 秦時代 径22.1㎝重104g
細文地龍鳳文鏡と同じスタイルの地文をもつという。
龍鳳文鏡よりも大きいので、地文が小さく見えるのだろうか。
では、この鏡の制作時期はどうだろう。
渦雷文地四葉文鏡 戦国時代末-前漢時代初頭(前3世紀) 径11.8㎝重130g
同書は、円形渦の左右に三角渦を組み合わせた渦雷文をすき間なく並べた地文をもつ。 地文はブロック状の原型(スタンプ)を鋳型に押し当てる方法で施文されており、羽状獣文地や細文地と同じ技術系譜にある。戦国時代末から秦時代頃に出現し 前漢時代前期にかけて流行した。本鏡は大柄な円形鈕座の外周に四葉を配するだけの簡素なもので、地文の状況がよく確認できるという。
渦雷文が完成された文様となっている点、そして地文が大きくて秦時代の繊細さに欠ける点などから、秦時代よりも後、前漢時代に入ってからの作品のように思う。
※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館
2016/08/26
石人とは
キルギスで見られる人を象った記念物を石人と呼ぶのは日本人だけだろうか。英語では単にstone carvingという言葉を使っている。
『The Stone Carvings at Burana Tower』は、ブラナの塔に置かれている石人は戦士たちに栄誉を授けるための記念碑となる墓石である。アルタイに突厥が建国した552年、6世紀中頃からキルギスの土地に石人を戦うことを発揚するものとして表すようになった。この汗国は、西突厥が建国した時に、天山、セミレチエそして東トルキスタンの一部を合併した。
チュー、イシク・クルそしてナリンにあった石人をブラナ野外博物館で見ることができるという。
石人の中で、右手に盃を持ち、左手で武器を持つ男性の彫像ははっきりと見分けることができる。石人は理想化された突厥の戦士を表しているという。
同石人の図解
実物の写真では分かりにくいが、戦士は2本の刀を左腰につけていて、背中には長い髪が腰まで届いている。これはサマルカンド、アフラシアブの丘で発掘された宮殿の壁画に表された西突厥人の後ろ姿に似ている。
キルギスの人々は今でも石人をバルバルと呼ぶ。バルバルは人間の姿ではない墓石で、戦士が殺した敵の数だけある。
石人のある場所で行われた考古学的な発掘で、石板を垂直に立てた囲いが、葬礼儀式のためにつくられたものであることを検証した。人間の埋葬はここでは行われなかった。ここは食べ物と火を必要とする弔いの儀式と宴会の場所だった。戦士とその家族の墓は、近くの別の墓域にあるという。
戦士を馬と全ての装備とともに埋葬するのは古代のテュルク系に典型的なものであるという。
これはビシュケクの国立博物館のパネルで示されていたことだった。
確かに、発掘によって石板を立てて並べた四角形の囲いとその1辺の中央近くに石人が立てられていた状態が出土している。
その下の図では、墓地には四角い囲いと円形の囲いとがあること、円形の方に人が埋葬されていたことが示されている。戦士の場合には馬も一緒に葬られている。
古いテュルク系文化の中で、キルギスには特徴があった。例えば、アルタイやモンゴル、トゥバでは彫像は顔を東に向けているが、天山ではしばしば西を向いている。婦人の石人は先祖崇拝の墓石として徐々に現れた。
天山とセミレチエの特別なグループの石人は婦人の顔で3つの突起のある冠を被っている。ある研究者は、子供と戦士の保護者であるウマイ女神のイメージを重ねているという。
左の人物の顎の下の帯は髭だと思ったが、女性像だった。
3つの飾り板のついた冠というと、仏像の三面頭飾(三面宝冠)を思い出す。
一つの石人の反対側の端に両刃の剣、丸いシンボルと続かない線がある。このような目印は青銅器時代後期にシカが描かれていた石の特徴である。そこでは、指導者や名のある兵士のような人々の石彫記念物とされた。前2千年紀-前1千年紀初頭に造られた。現在では、石に彫刻されたシカの図は、バイカルからモンゴル、トゥバそしてアルタイにわたって見ることができる。これは、キルギスの古い住民は他の中央アジア東方と関係があることを物語っている。
古い石彫記念物の反対側を使って500年後に石人を造ったのは、テュルク系の人々の独特のものであるという。
これはきっとイシク・クル湖から運んで来た石人だろう。それにしても、青銅器時代の岩絵のある人の形に近い石を上下逆にして石人にしていたとは。このような岩絵のある石が戦士の勇敢さを示す特別なものと捉えていたのか、それとも、ただ石人像に相応しい形というだけだったのか。
死んだ男性の戦での価値は、完璧に整えられた身だしなみの三面の石人に反映されている。ベルトの装身具はサーベル、鞘に収まった両刃の剣、火を起こす道具を入れる小さな袋や食器類などという。
騎馬遊牧民は馬で遠出する時にベルトに様々な道具を吊り下げた。それが戦士の正装でもあったようだ。
後に腰佩という装身具になる。腰佩についてはこちら
突厥人の腰佩の図版がある。
突厥の金帯飾り 出土地不明 時代不明
『週刊シルクロード12キルギス』 に掲載されていた写真(ユニフォト)で、金細工の部分に狩猟紋(狩猟する絵)が描かれているという。
石人が造られたよりも後の時代のもののように思われる。
関連項目
ブラナ野外博物館についてはこちら
ビシュケク、キルギス国立博物館に展示されていた石人はこちら
チョン・ケミン渓谷、アシュ・ゲストハウスの庭に集められていた石人はこちら
鹿石の帯に吊り下げられた武器と新羅古墳出土の腰偑
新羅の腰偑は突厥の金帯飾りに似ている
※参考文献
「The Stone Carvings at Burana Tower」 Kubatbek Shakievich Tabaldiev
「週刊シルクロード12 キルギス イシク・クル湖ビシケク」 2006年 朝日新聞社
2016/08/23
ブラナのミナレットの建造時期は
ブラナのミナレットは焼成の平レンガを組み合わせることによって、外壁を装飾している。
これは各地のミナレットに共通するもので、施釉タイルがまだない時代、それも早期のものだろう。しかし、『BURANA』はその建立時期については記していない。
その文様から建造期を推測してみると、
卍の段と「工」字形の段が交互に重なっている。
卍が入り込んでいるように見えるが、卍ではない。
その下にある文様帯では、卍の4つの端からそれぞれ90°曲がってコの字をつくり・・・
平レンガを4種類くらいの長さに切って、それを組み合わせて幾何学的な文様をつくっている。
カリャン・ミナレット(カラーン・ミナーレ、カリヤン・ミナレットとも) カラハン朝、1127年 46m
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、カリャーン・ミナレット(偉大な塔)は神聖 なブハラのシンボルである。ミナレットはイスラム教徒への呼び出しのために使用されいたのではなく、精神的な指導者の権威とパワーを象徴していた。ミナ レットの周りにはポイ・カラン(偉大な人の足元)というブハラの主要なアンサンブルが建造された。カラン・ミナレットは下部の直径が9m、上部の直径が 6mであるという。
小さな正方形かその2倍の長さの長方形を、焼成レンガの間にはめ込んでいって、簡素な文様を作っているだけで、これが何文様かとは言えないくらいにまばらである。
その青色系のタイル装飾の上のムカルナスには、少しではあるが浮彫焼成レンガが残っている。
ウズゲンのミナレット 11世紀 高さ40m(現在は13mのみ)基部の直径9.4m キルギス
『LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES』は、全面イスラーム文様のタイル装飾があるという。
ブラナのミナレットと本来の高さが同じくらい。
様々な文様を、ほぼ同じ規格の平レンガを組み合わせることによって作り出している。
一番下の文様帯が、卍があるようなないような・・・ 平レンガを直線的な幾何学文様に使っている点で、ブラナのミナレットに近い。ブラナのミナレットも11世紀に建立されたのではないだろうか。
では、どちらが先か?菱文繋のような洗練された文様を焼成レンガで構成していることなどから、ウズゲンよりもブラナのミナレットの方が先に造られたのでは。
ミル・ザイド・バフロム廟 1020年頃 ウズベキスタン、カルマナ町
同書は、ピーシユターク(ファサード)とドームのある立方体の建物である。細部には浮彫焼成レンガを用いた豊かな装飾があるという。
入口を囲むコの字形の文様帯には、小さな正方形を囲む2種類の文様が交互に配される。文様は異なるが、ブラナのミナレットの幾何学文の構成に通じる
両端の付け柱状のものには、サーマーン廟で多く使われた横2縦1という焼成レンガの積み方が採られている。
入口を囲む尖頭アーチにアラビア文字による銘文がある。ブラナとウズゲンのミナレットは上部が失失われているため、それがあったかどうかが分からないが、11世紀前半の墓廟にあるのなら、ミナレットにもあった可能性が高い。
ブラナのミナレットは、11世紀の前半、それもミル・ザイド・バフロム廟の前後ということにしておこう。
アク・ベシム遺跡← →石人とは
関連項目
バラサグン遺跡1 ブラナのミナレット
※参考文献
「BURANA」 Tabaldiev Kubatbek Shakievich Megamedia
「LUMIERE DE LA PROFONDEUR DES SIECLES」 1998年 Charque
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT
2016/08/19
アク・ベシム遺跡
『シルクロード紀行12』で林俊雄氏は、現在のキルギス共和国の領域は、西部天山山脈の北麓からフェルガナ盆地の南にまで及んでいる。
この地にキルギス人が現れたのは今から400-500年前のことで、それ以前は、同じテュルク(トルコ)系の突厥やテュルギシュ(突騎施)、カルルク、イラン系のソグド人、さらに遡ると、やはりイラン系のサカ(塞)や系統不明の烏孫などが住んでいた。
天山山脈からキルギス、カザフスタンの草原には、サカの築いた古墳が今でも数多く残されている。その一部は烏孫が造ったものではないかとする説もあるが、確証はない。
6世紀になると、今日のキルギスの地域には西突厥の本拠が置かれる。ここまで名前を挙げた部族集団は、みな騎馬遊牧民であるが(ただし烏孫の一部は農耕を行っていたとする説もある)、この頃から定住民の活動も目立ってくる。
天山山脈から北に流れ出る川の中でも、イリ川と並んで大きいのがチュー川であるという。
そのチュー川が平原に出たばかりのところに、アク・ベシム遺跡がある。その中心部分をなすのは厚い城壁で囲まれたほぼ四角形の主市街区(ペルシア系の言語ではシャフリスタンという)で、面積は約35万㎡に達する。城内の西南隅に砦跡がある。主市街区の東側に接して面積60万㎡以上の隣接市域(ラバトという)が広がっているが、ここは建築址が散在するだけで、密集した住居区画はない。遺跡全体の形は、中世初期の中央アジア西部の都市とほぼ同じであるという。
アク・ベシム遺跡平面図
見学したのはシャフリスタンの南東隅の遺構。南西部にはGoogle Earthで確認できる幾つかの建物跡は、上の図の蛇行する城壁の内側のもので、外側にある2つの仏教寺院址は土の中のよう。
Google Earthより
『シルクロード紀行12』は、この遺跡では、少なくとも3つの仏教寺院址と一つのキリスト教(ネストリウス派)教会址が発見されている。そのうち、1号仏教寺院址はシャフリスタンの西南隅の外にある。東西方向に長く、東に入口があり、西に本堂がある。その中間は中庭になっていて、庭に面した側は開いていて柱が立ち並んでいる。このような構造は、ソグド地方など、中央アジア西部のオアシス地帯に特徴的である。建築材料は日干レンガ(藁まじりの軟らかい泥を木枠に流し込んで天日で乾燥させたレンガ)で、その寸法は3種あるが、いずれもソグドの日干レンガと一致するという。
『PARADIGM OF EARLY MIDDDLE AGE TURKIC CULTURE:AK-BESHIM SETTLEMENT』(以下『AK-BESHIM SETTLEMENT』)は、どちらの寺院も建築技術は同一で、土(版築)、壁を築くのに突き固めた土の塊と、その間に水平な数段の日干レンガ列を入れることという。
第1仏教寺院
正方形の寺院で、広い通路と長方形の中庭そして幾つかの部屋のある入口の建物(前門)があり、長さ76m、幅22mの長方形であるという。
西奥にあるほぼ正方形平面で、東に入口のある建物が本堂で、内部中央に空間がある。赤く塗った4本ずつ南北2列に並んだ8本の角柱は柱廊だろうか。

復元図によると、8本の角柱のあるところも陸屋根が架かっていた。その奥のドームはストゥーパ?
2本の木柱(平面図では角柱だが、復元図では円柱になっている)で梁を支え、梁が横木を支える平天井になっている。ウズベキスタンの夏用モスクになっている柱廊(ボロ・ハウズ・モスク)のよう。中央アジアでは、このような木材を使った平天井が伝統的に受け継がれてきたということか。
仏坐像と立像が中央の開口部両側に安置されている。
キルギスでは、仏陀の3つの伝統的な姿勢、坐像、立像、涅槃像全てが、アク・ベシムとクラスナヤ・レチカでの発掘によって出土しているという。
また、第1仏教寺院からはパルメットや金メッキした青銅の飾板が出土しているという。
① パルメットまたはアカンサスの葉の間に仏または千仏が座した飾板
② 宝相華文の中に仏坐像と仏の方を向く2人の人物
③ 神または王族の夫婦像
これは異教神々の影響を受けた地域独特の仏教図像で、頭飾をつけた男性と鋸歯状の王冠を被った女性、そして二人の前には玉座がある。二人とも片腕をあげ、頭を右に向け肢を曲げて座るバクトリアのラクダを掲げているという。
同書によると第2仏教寺院は、平面図を見ると正方形で、前門の役割のある建物と中庭は、寺院内部の前面位置する広大なホールになっている。内陣は10X10.5mの正方形の十字ドーム型である。全体の大きさは38X38.4mの正方形平面で、内陣から同心状に2本の通路を持つという。
同書は、ラバドの方では、シャフリスタンの城壁から165m東方で、ネストリウス派キリスト教会が発掘された。シリアの4-6世紀の十字ドーム型プランをもつ教会との比較によって8世紀とされた。教会は楕円形で東西方向にのび、36X15mであるという。
その平面図も想定復元図も掲載されていない。
キリスト教会の発掘は1996-98年に、シャフリスタンの南東隅で始まった。修道院の建物群は、建立されてから、都市が存続している間は使われ続けたことがわかった。3つの主要な部分-教会(南側にある)と2つの建物の内一つは北に、もう一つは中央に平行して立っていた。西側では、2つの長方形の中庭は一続きで、広大な中庭であった。
十字架をイメージした陶製飾板(建物の聖なる区域の壁面を飾っていたらしい)遺物を伴った建物の配置は、キリスト教会の建物に一致する。建物群の規模は巨大であるという。
ということは、我々が見学した建物はキリスト教会だったのだ。
東側より
西側より
東寄りの側は、西側まで続くヴォールトの格天井が互いに連結する3つの部屋からなるドームのある建物が並んでいるという。
ということは、三廊式のバシリカ式教会、中庭などが南北に並んでいたのだった。近寄りすぎないで、城壁跡から全体を写せば良かったのだ。
これらの部屋は主ドームのある建物のように、それぞれ入口があった。西側には家事のための小さな部屋がいくつかあった。G.L.Semenovは、建立時期に言及せずに、この建物の使用期間を10-11世紀とした。
発掘は完了していないが、すでに発見された陶器は、6-8世紀の特徴を示している。このことは、キリスト教の修道院としての存続を示しているようだ。10-11世紀の施釉陶器はカラハン朝期の様相を見せている。多数の出土物や甲冑と武器の破片などによって、この建物の終末期には、別の目的で使用されたのは確かであるという。
それで時期が2つ記されているのだ。
仏教とキリスト教の建築(イスラーム以前)には画一性が見られる。シャフリスタンのキリスト教建物群と第1・第2仏教寺院を比較すると、通路とヴォールト状の柱廊は、長方形と正方形の繰り返しによる独特の外観となっている。
寺院はドーム架構され、第2仏教寺院には柱廊玄関がない。寺院の前面に中庭を配置することで、その代わりとしている。
3つの建物の玄関は、壁面が土の塊の分厚い基礎という同じような様式で造られている。その上には日干レンガがドームあるいは格天井まで積み重ねられた。日干レンガのサイズはいろいろあって、40-45X20-22X10㎝。パフサの塊は80X85㎝の高さで70㎝幅という統一規格。この寺院は、当時の中央アジアで最大で最も複雑なものであったという。
ところで、玄奘三蔵が西突厥の可汗に会うためにペダル峠を越えてやってきた。
『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は、峠を過ぎればすでに国域は西突厥である。ひたすららに山を下ると、やがて目の前に波立つ青黒い湖が見えてくる。大清池である。
玄奘一行は束の間の休息を湖のほとりにとった。ここから葉護可汗の王庭のある素葉水城(スーヤーブ、素葉城)に至るのに、彼らは湖の北岸沿いの道をとったのか、南岸沿いに進んだのかは、明らかではない。ただ「海に循い」(『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』)、「清池の西北へゆく」(『大唐西域記』)としか記されていない。
玄奘は先を急いだ。大清池の西端を過ぎてさらに行くと、やがてチュー川のむこうに素葉城が見えてきた。現在のトクマクの南方にあるアク・ベシムの遺跡がその城址だという。玄奘のいう素葉も『唐書』にみえる砕葉城も同じで、ともに現地語「スイアブ(河水)」の音訳である。「城の周囲は6、7里で、諸国の商胡が雑居している」、玄奘が素葉で目にしたのは、国も扱う商品もさまざまに異なっていた商人たちがここに集まり、騒然とし活気にみちた国際的な交易・中継市場の光景であった。
ソグド人の植民市であったここには妍祠(ゾロアスター教の礼拝堂)はあっても仏寺はなかった。チュー川を10数㎞下るとクラスナヤ・レチカの城址がある。こんにちでは発掘によって涅槃仏もある仏寺の存在も確認されているが、玄奘が素葉を訪れたときにはまだ創建されてはいなかったと思われる。麹文泰が玄奘に統葉護可汗を訪ねるよう勧めたのも、当時の可汗の力が南のガンダーラ地方にまで及んでいたからであったという。
アク・ベシムやクラスナヤ・レチカで発掘された仏教寺院もキリスト教会も、まだ建立される前に玄奘三蔵はやってきたのだった。
涅槃像は、チュー川の少し下流のクラスナヤ・レーチカ遺跡で出土しているが、ほぼ脚部のみ残っている。
※参考文献
「シルクロード紀行12 キルギス イシク・クル湖 ビシケク」 2006年 朝日新聞社
「PARADIGM OF EARLY MIDDDLE AGE TURKIC CULTURE:AK-BESHIM SETTLEMENT」 L.M.VEDUTOVA SHINICHIRO KURIMOTO 2014 ALTYNTAMGA
「玄奘三蔵、シルクロードを行く」 前田耕作 2010年 岩波新書
2016/08/16
中国の古鏡展4 松皮菱風の文様(杯文)
松皮菱という文様
羽状獣文地花菱文鏡 戦国時代(前3世紀) 径13.6㎝重257g
同書は、羽状獣文地に松皮菱風文様を連ね、その間に四弁花文を配する。中央の花文は鈕座になっている。幅広の凹面帯であらわされた松皮菱風の文様は、対称性を維持した正確な割り付けがなされているのが特徴である。また各花文は縄状線で結ばれており、文様の表現手段としては山字文鏡と同じスタイルをとっている。とくに四山字文鏡と鏡体も類似しており、これとほぼ同じ頃に同じ地域で製作された作品と考えられるという。
松皮菱とはっきりわかる文様で、しかもその繋文となっている。ただ、松皮菱を縦にして繋文とするのは珍しい。
丸刃の彫刻刀で幅広に削ったかのような、浅い「く」の字形の力強い線は、左右に向きを変えながら縦に配していくと、雷を表しているようにも見える。
以前に松皮菱についてまとめたことがある。その中から、
幾何対鸞文綺 前漢時代(前2世紀) 湖南省長沙市馬王堆1号漢墓出土 長沙市、湖南省博物館蔵
『中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ』は、杯形の幾何学の骨組みの中にそれぞれ一対の鸞鳥文と一組の四角放射式の対称変体草花文をうめているという。
同じ松皮菱の繋文でも、横向きにすると落ち着く。
大菱形文錦 戦国中期(前4世紀) 湖北省江陵県馬山1号楚墓出土 湖北省、荊州地区博物館蔵
同書は、経錦である。経糸は深棕・深紅・土色の3色で、緯糸は深棕色である。織り出した大菱形文様の中に、深紅・土黄色の小三角形が角や底辺を合わせながら配列されており、また、中小型の菱形文様、杯文、「工」字文様などをうめているという。
非常に細かい精緻な織文様のだが、松皮菱の繋文としては整っていない。錦は松皮菱を横向きにしてつないでいる。その中には上下の出っ張りは小さいものの、松皮菱が文様として組み入れられているのだが。
細文地四鳳鏡 秦時代(前221-206年) 径11.2㎝重104g
同書は、非常に細い直線や渦巻線と小珠点とを組み合わせた地文をもち、そのうえに様々な文様を載せる。戦国時代中頃から散見し、秦時代から前漢時代初頭にかけて地文のパターンが緻密でかつヴァリエーション豊かになる。地文の上に載る主文様も精緻でかつシャープな表現をとるものが多い。
極細線であらわされた鉤連雷文のなかを小珠点で埋め尽くし、その隙間に極細線の渦巻文を並べた地文をもつ。方形鈕座の四隅に尾を高く振り上げた鳳が留まる。鳳の隣には大柄な菱文を入れているという。
浅い地文だが、鉤連雷文の線、その中に規則的に並ぶ小珠点、渦文がはっきりと鋳出されている。
松皮菱は、四角形鈕座の各辺の上方に置かれ、太い線が強烈。家紋のようにも思えるが、当時の中国で家紋などというものがあったかな。
菱文は戦国時代後期の羽状獣文地花菱文鏡にみられる松皮菱風文様の系譜を引くもので、秦時代から前漢時代前期の鏡に多く採用されているという。
煙色菱文羅 前漢初期(前2世紀) 馬王堆1号墓 長沙市、湖南省博物館蔵
同書は、4本綟りの菱文羅である。菱文は縦の細長い複合菱形である。両側に小菱形 の縁があり、形は漢代の耳付きの漆杯に似ているため、杯文と称せられている。菱文は細太の2組に分かれ、交互に配列している。細線の菱形は2本の点線で文 様を勾勒し、太線の方は実線で文様勾勒し、二重の文様を形づくっているという。
松皮菱風の文様は、青銅器だけでなく、織物の文様にも使われてきた。菱文は縦の細長い複合菱形である。両側に小菱形の縁があり、形は漢代の耳付きの漆杯に似ているため、杯文と称せられている(『中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ』より)という。
おまけに耳杯
彩漆鳳鳥文耳杯 戦国時代(前4-3世紀) 湖北省江陵県馬山1号墓出土 荊州博物館蔵
『世界美術大全集東洋編1』は、馬山1号墓は墓の規模が小さく、副葬する銅礼器の構成も一般的であり、前340-278年ごろに中流「士」階層の40-45歳くらいの女性を葬った楚墓とされている。しかし、この墓は保存がことのほか良好で花錦や刺繍を含む多くの豪華な衣服類とともに、あでやかな彩色をとどめる漆器類が出土している。
鳳鳥文耳杯は横木取りの刳物で、器壁が厚い。楕円形の口縁両側から新月形の耳が立ち上がり、外面に小さな平底を作る。器の外面に黒漆をかけ、内面は褐色の地に赤・黄・金色などで文様を描く。内面の中央に金色の花弁文を置き、花弁の左右に1羽の鳳鳥文を銀色で大きく描くという。
大菱形文錦とともに出土した耳杯だった。
四神温酒器 前漢(前2-前1世紀) 西安市大白楊村出土 高さ11.2㎝柄も含めた長さ24.1㎝幅10.7㎝ 青銅 西安市文物保護考古所蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、長方形の台の上に青竜・朱雀・白虎・玄武の四神を配し、取っ手がひとつ付いた楕円形の炉があり、その炉の上部にさらに耳杯が載った構造である。下の炉で炭を焚き、上に乗っている耳杯を暖め、酒の燗をするためのものであるという。
『中国国宝展図録』は、耳杯とは、戦国時代から漢時代にかけて、酒の杯やおかずを盛る小皿として用いられた食器。上から見ると顔の両側に耳がついているような形であることからこの名がある。実用の耳杯の多くは漆器であったという。
直線を組み合わせた菱文に、このような曲線で構成されている食器の名を付けるとは。
中国の古鏡展3 羽状獣文から渦雷文、そして雷文へ←
→中国の古鏡展5 秦時代の鏡の地文様は繊細
関連項目
杯文(松皮菱)の起源は戦国楚
中国の古鏡展2 「山」の字形
中国の古鏡展1 唐時代にみごとな粒金細工の鏡
※参考文献
「村上コレクション受贈記念 中国の古鏡展図録」 根津美術館学芸部編 2011 根津美術館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館
「中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」 2000年 小学館
登録:
投稿 (Atom)