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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/11/30

日本の魚々子の変遷 


正倉院宝物で唐から請来した器の魚々子は細かく精緻に打たれていたが、日本制作と思われるものは魚々子が疎らだった。
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正倉院宝物以外にも魚々子地のものがある。

舟形光背表面 東大寺二月堂  
『日本の美術330飛天と神仙』は、二月堂本尊の金銅十一面観音(聖観音ともいわれる)立像(秘仏)に付属していたものとされ、その制作は天平宝字期(8世紀後半)といわれているという。
魚々子は唐の優品のように横に整然と並んでいるわけではないが、魚々子がびっしりと穿たれ、隙間がなくなっている。
おそらく工人の技術が向上した結果だろうが、これが8世紀後半に制作されたものということで、魚々子の年代判定の基準となるものだ。他に同時期に作られたものは東大寺に多い。

飛天 金銅八角燈籠中台側面 東大寺大仏殿 8世紀後半
『日本の美術330飛天と神仙』は、大仏殿正面に据えられている八角燈籠は開眼供養時頃の遺品とみられている。燈籠中台側面に、宝相華に混じって飛翔する天人像が表されている。魚々子地に線刻された姿は片手に華盤を持ち散華するさまを表現しており、片膝を曲げて飛遊するかたちは法隆寺金堂壁画像を想起させるという。
飛天そのものはよくわからないが、間地は魚々子でびっしりと埋まっている。大仏の開眼供養は天平勝宝4年(752)なので、二月堂本尊の舟形光背と同時期に制作されたものだろう。
銀鍍金狩猟文小壺  東大寺金堂鎮壇具 8世紀
総高4.5
『日本の美術437飾金具』は、騎馬人物が鹿を追う狩猟文様は唐の金銀器にしばしば見るものだが、細部表現に省略が見られ、間地の魚々子も密度が少々粗いことから日本製とされている。しかし、唐代金銀器も圧倒的に細密な彫金を行うのは唐前半期のもので、8世紀頃から、やはり粗い彫金ものが目につきだす。したがって東大寺銀壺の制作地の彼我を、彫金作風のみで決めるのは難しい。むしろ、宝冠や正倉院南倉の磬形に見る魚々子地唐草も考え合わせ、8世紀半ばにあって、日本の金工工房も中国工房と大差ない作行を持ち得ていたことの方が重要であろう。天平勝宝6年、唐僧鑑真が仏具を携え工人を従えて来朝し、盛唐後期の美術を伝えた、との三宅久雄氏の指摘がある。そのような事態が断続的に生起したと考える方が、古代日本の工芸の推移を説明しやすいと思う。
日本の飾金具の歴史の中で、上に見た品々が、第一の盛期をなすことの意味背景はここにあるという。
正倉院南倉の磬形(部分)はこちら
鑑真さんは、翻波式衣文と塊量感のある体軀が特徴で、貞観仏とも呼ばれる平安前期の仏像へと繋がる造像様式を伝えているが、密に並ぶ魚々子もまた日本に伝えていたのだ。
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矩形唐草紋金具 薬師寺 
こちらの矩形金具は時代が記されていないが、魚々子の並び方から見て、上の3点及び正倉院南倉の磬形金具などと近い時期に制作されたものだろう。
その点、正倉院南倉に収蔵されてきた金属器で魚々子のまばらなものは、これらよりも以前に作られたと思われる。
たとえば、金銅小盤など。
では、それらが正倉院に献納された時期は何時頃だろう。
『第64回正倉院展目録』は、天平勝宝8歳(756)5月2日、聖武天皇は56歳で亡くなった。七七日の6月21日、光明皇后は聖武天皇が大切にしていた六百数十点の品々と六十種の薬を東大寺の大仏に献納した。これが正倉院宝物の始まりである。
南倉には東大寺の宝物が納められている。天暦4年(950)には東大寺羂索院双倉の納物が南倉に移された。永久5年(1117)には白河法皇の命によって南倉宝物の点検がおこなわれ、点検記録「綱封蔵見在納物勘検注文」が作成された。これによると天平勝宝4年(752)の大仏開眼会をはじめとする法会で使用された仏具類が多い。大仏開眼会の関連品は、光明皇后の献納以前から南倉に納められていたと考えられているという。
南倉には、大仏の開眼供養や聖武天皇の遺品だけが所蔵されていたのではなく、収蔵された時代もばらばらだ。

そして、疎らな魚々子は何時頃、何処で制作されたのか。
唐の魚々子が緻密なものであるとしても、その初期のものには、日本や百済などと同じように疎らな魚々子地がある。

青銅鍍金走獣文珌 隋~唐初(7世紀、隋は581-618年) 
高5.2㎝幅7.2㎝  
まばらに魚々子が刻まれている。
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、魚々子は全体は方形で、方形のなかに円い魚々子がある。主文の走獣の形式から隋あるいは唐時代初期と判断できるが、魚々子を打った例としてはきわめて早い1点であるという。
確かに獣より前方の魚々子は丸いものが目立つが、腹部の下は方形の魚々子が多く見られる。魚々子の最初期は丸だけでなく、方形の魚々子があったのは興味深い。 
それだけでなく、百済や日本で制作されたもの同様、魚々子は疎らに打たれている。 
韓半島でも制作年代のわかる魚々子地の作品がある。

金銅製舎利外壺 弥勒寺西九重石塔発見 639年頃
『第64回正倉院展目録』は、弥勒寺址西九重石塔の舎利荘厳具には金製舎利奉安記があり、これより弥勒寺は百済王后佐平沙宅積徳の女を施主として伽藍が造営され、639年に舎利を奉迎したことが見えることから、金銅製舎利外壺もそれに合わせて製作されたと考えることができるという。
方形の魚々子は見当たらないものの、魚々子が疎らに彫られていることがわくわかる。
隋末唐初の魚々子誕生の時からさほど隔たらない頃に、百済に魚々子の技術が伝播されたのだろう。
日本でも制作時期が判明している貴重な作品もある。

飛天 銅板法華説法図 天武14年(686) 奈良・長谷寺
『日本の美術330飛天と神仙』は、銅板法華説法図は、天武14年(686)作とする説が有力であるが、この下縁に奏楽する天人坐像が表されている。略画風の線刻ながら、横笛・簫・琵琶や種々の鼓を奏でる天人像の表現は龍門初唐期の万仏洞などに類例があり、のちに隆盛をみる奏楽菩薩像の先駆としても注目されるという。 
魚々子地については記述がないが、かなり疎らで、日本で作られた魚々子地の最初期のものとみなして良いだろう。
この作品は日本で制作されたものとされているが、そのためには、当時魚々子を打つ技術のある渡来人や魚々子の彫られた請来品が不可欠だっただろう。
この頃に日本に魚々子の技術を伝えたのは、隋または唐だろうか、それとも百済だろうか。

関連項目
第64回正倉院展7 疎らな魚々子
第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?
第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
日本に金銀山水八卦背八角鏡より古い魚々子地があった
魚々子の起源は金粒細工か
中国の魚々子と正倉院蔵金銀八角鏡の魚々子
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「第56回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2004年 奈良国立博物館
「第37回正倉院展目録」 奈良国立博物館 1985年 奈良国立博物館
「日本の美術330 飛天と神仙」 林温 1993年 至文堂
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術437 飾金具」 久保智康 2002年 至文堂
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 百橋明穂・中野徹 1997年 小学館

2012/11/27

第64回正倉院展7 疎らな魚々子

今回出陳されていた魚々子地の作品は、どちらも魚々子が疎らだった。
『第64回正倉院展目録』は、古代における魚々子の技術については中野正樹氏の論考があり、それによれば中国・唐では魚々子を一つ一つ丹念に打ち、一列に整然と隙間なく粒を並べる点に特徴があるのに対し、朝鮮半島の統一新羅やわが国の奈良時代では、粒が疎らで隙間が多く見られ、一つ一つが丹念に打たれていないという。

第64回正倉院展で見た銀壺は大きな作品に緻密に魚々子が打ってあり、唐製とされている。
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百済の作品にも統一新羅と同様の疎らな魚々子の打ち方を見ることができ、古代の朝鮮半島に共通する特徴であったと考えることができるという。
その百済製作の作品とされているのが、瑠璃坏台脚裾だ。

瑠璃坏 るりのつき 中倉
瑠璃坏の台脚裾に表されていたのはどうもマカラではないかと考えている。
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 『第64回正倉院展目録』は、この魚々子は、粒と粒とが接しない疎らな打ち方に特徴がある。古代の朝鮮半島に共通する特徴であったと考えるとし、韓国・弥勒寺西九重石塔発見の金銅製舎利外壺との共通点からこれを、7世紀中頃の百済において製作されたという。
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金銅小盤 こんどうのしょうばん 南倉
長径14.2短径11.3高4.0
同展図録は、菱形十二曲の脚付き皿で、法会の時に供物を盛る供養具とみられる。銅製鍛造の盤に、厚さ3㎜の銅板切抜きによる華足がとりつけられ、全面に鍍金が施される。盤の内面には花文、草花文、唐草文を毛彫し魚々子地とする という。
本作品では魚々子かどうかさえ判別できないほどまばらだ。
内面の側部は魚々子で草花文の輪郭だけが打ってあり、何らかの理由で毛彫が一部分にしかなされていない。これらの形跡から、表面の文様は、華足を付けた盤に文様の下図を描き、間地に魚々子を打ってから、文様を毛彫するという順番で仕上げられたと考えられるという。  

未完成な作品だが、魚々子地についてはこれで作業を完了しているらしい。
正倉院には他にも疎らな魚々子の作品がある。

佐波里蓋 さはりのふた 南倉
径16.3高1.9
『第56回正倉院展目録』は、佐波理製の鋺(かなまり)の蓋で、身は失われている。鋳造後轆轤挽きして整形されている。
佐波里は銅に錫、鉛を加えた合金。黄金色を呈し、たたくと美しい音色がすることから響銅ともいう。佐波里の名称は、『和名類聚称』によれば新羅語の転化というが、ペルシャ語に起源があるとする説もある。飲食器仏具に使用される場合が多い。
やや甲盛があり、側壁はやや内側へすぼまる形状で、蓋上面中央に環状の紐をつくりつける。上面は鈕の部分と、その外側を突帯によってさらに2区画に分け、鈕の内側の部分に四弁の宝相華文、外側の2区画に唐草文様を配している。地の部分にはやや粗雑ながら魚々子が施されるなど装飾性が見られるという。
魚々子は円になっていないものの方が多い。魚々子は丸鏨(魚々子鏨)で打つことによって丸い形が穿たれるが、技術が未熟だったのだろうか。それとも、丸鏨がまだなかったので、毛彫用の鏨で丸く彫ろうとしたのだろうか。
ゆったりと器を飾る唐草文様とは同時期に作られたものと思われないほど技術の差がある。
金銅磬形 正倉院宝物
『日本の美術358唐草紋』は、銅板を切り抜いた磬形板の表裏に唐草紋を線刻し、地に魚々子を打ち、全面に鍍金をしている。盤の下につけらけたものであろうという。
『日本の美術437飾金具』は、魚々子地に躍動感あふれる唐草を毛彫にしたもので、相当工人の素性に関心が持たれるという。
画像が鮮明でないためわかりにくいが、上の2作品と比べると魚々子は密に打たれている。輪郭線に沿って打たれている箇所も見受けられる。
ただ、唐草文様は、佐波里蓋に比べると、茎から出た小さな葉などはかなり省略されており、佐波里蓋よりも時代が下がるのではないかと思われる。
投壺 正倉院宝物
『日本の美術358唐草紋』は、投壺は中国から伝わった儀礼としての遊戯。「つぼうち」という。表面には全面に魚々子地に線刻紋様を表す。頸部下段と胴部中央に花唐草紋の帯があるという。
本作品は金銅磬形よりも魚々子が疎らだが、胴部の花唐草文は佐波里蓋に近い表現となっていて、制作時期が近いことがわかる。
金銅六曲花形坏 こんどうろっきょくはながたのさかずき 南倉
高4.1口径8.3
『第37回正倉院展目録』は、銅鍛造鍍金の小振りの花形のさかずき。弁間に猪目を透す六花形の鋺に別造の高台を鑞付けし、各弁端表から底裏にまで装飾をほどこして鍍金した華麗な品である。
施文は魚々子地に線刻で、竽、琵琶、横笛、笙、琴、鼓を奏する6躯の奏楽天人を表すが、間地を魚々子地一色とはせずに、所々に花文を散らし、いかにも浄土に舞う奏楽天人にふさわしい趣きをみせているという。
鋳造ではなく鍛造のためか、六曲の稜が不揃いで、しかもいびつである。残念ながら、奏楽天人はその稜のところに表されているためわかりにくい。
魚々子の方は疎らに打たれている。
正倉院宝物で魚々子地のあるものは、明らかに唐からの請来品の精巧な作りのもの、百済からの疎らな請来品、日本製だが疎らなものと密になっているものと、4種類あるように思う。


第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?

                                                     →第64回正倉院展8 螺鈿紫檀琵琶に迦陵頻伽

関連項目
第65回正倉院展6 続疎らな魚々子
第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
日本に金銀山水八卦背八角鏡より古い魚々子地があった
魚々子の起源は金粒細工か
中国の魚々子と正倉院蔵金銀八角鏡の魚々子

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「第56回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2004年 奈良国立博物館
「第37回正倉院展目録」 奈良国立博物館 1985年 奈良国立博物館
「日本の美術330 飛天と神仙」 林温 1993年 至文堂
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術437 飾金具」 久保智康 2002年 至文堂

2012/11/23

第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?


密陀彩絵箱の身側面に並んでいる怪魚の頭部はマカラではないのだろうか。

密陀彩絵箱 みつださいえのはこ 中倉
縦30.0横45.0高21.4
『第64回正倉院展目録』は、身側面は、忍冬唐草文と怪魚の頭部が規則的に並び、律動感と秩序が並存する。床脚にも蕨手状の草文が配されるという。
気炎や火焔ではなく、食べ残しを吐き出しているのだろうか。
マカラについて『東洋の造形』は、古代インドの人びとは、海や河の水にも主が住んでいると想像し、それを具体的に造形した。その一つが、インドで誕生し、発展した「摩竭魚」(梵語ではマカラ(摩伽羅)という)である。
摩竭魚は、普段は深い海底や河底の海草や水草の下にいて、小魚や真珠貝などを食べているが、ときどき陸に上がって、鹿や獅子などの動物を食すると想像された。その姿は、胴体は鰐(ワニ)で、尾は海豚や鯨であり、表皮には鱗があり、牡牛や獅子や熊、あるいは鹿や象などの頭をもち、前肢には羚羊(カモシカ)の足がついていると想像した。
また、摩竭魚は、海や河の大食漢と呼ばれ、口に長いなまず髭をつけ、その髭の間から吐く息とともに、食べた動物や真珠、海草や水草の茎などを吐き出すのである。このようすが、ブッダガヤ遺跡の塔門、アジャンタ遺跡の壁画などに描き込まれているという。


マカラとヤクシャを表す浮彫装飾 6世紀 インド、サールナート 砂岩 高21幅100奥行27.5 ニューデリー国立博物館蔵
同展図録は、建築の楣のフリーズ装飾で、グプタ朝の渦巻唐草の典型的な特徴を示す一例。この唐草文は葉先が翻り、うねった渦巻状になる流麗なもので、怪魚マカラと小人形ヤクシャとともに表される。マカラはその頭部と前脚だけが残り、頭部後方から尾の部分が唐草化しているという。
マカラがヤクシャを呑み込もうとしている場面に見える。
瓔珞などにもマカラの頭部だけが使われていたりする。

ヴィシュヌ立像 5世紀 インド、マトゥラー、ジャイシングプラ出土 砂岩 高93幅58奥行30 マトゥラー博物館蔵  
『インド、マトゥラー彫刻展図録』は、頭部を欠くが肩に巻き毛を長く伸ばし、豪華な首飾りを付け、腰帯両端の紐を体前に垂らしているという。
3連の首飾りの一番外側の、何筋もの真珠を捻って束ねたものの胸前にある飾りにマカラが表されている。中央から両側に口を開いたマカラが食べ残しの真珠をまとめて吐き出しているのだろうか。
クリシュナのヤゥパーナ渡岸と摩竭魚 2世紀 砂岩 マトゥラ博物館蔵
『東洋の造形』は、人間に解脱を啓示しにきたというクリシュナ伝説をもとに浮彫りにされている図である。龍神や摩竭魚が上半身を水面に出しているのがみられるという。
摩竭魚の頭部だけが表されているものがあった。マカラは口を広げて魚を吐き出しているのではなく、頭から呑み込もうとしているように見える。
海獣マカラと龍神ナーガ マトゥラー、ソーンク出土 クシャーン朝、2世紀 砂岩 高22㎝ マトゥラー博物館蔵
『世界美術大全集東洋編13 インド』は、鰐に似た空想上の海獣マカラも、水に潜むエネルギーと関係し、古代初期美術以来、マトゥラーにおいても装飾的なモティーフとして好まれているという。
やっぱり吐き出すだけでなく、呑み込む場面もあるようだ。
尾は渦巻いている。
摩竭魚 バールハット遺跡の塔門 浮彫  前2世紀頃
顔面は、水に住む鰐の形になり、鼻の端が象のように巻き上がっており、口のまわりには細長い髭がみられる。尾は、魚のかたちではなく、渦巻形になっているという。
尾に鱗がはっきりと表されているが、渦巻く尾というのはイルカでもクジラでもない。
摩竭魚とヤクシャ ブッダガヤ出土の石に浮彫 前3世紀
鰐のごとく歯をむき出した顔面と、尾にかけてねじれた魚尾をもっているという。
捻れ方が一重、二重、幾重と様々。
マカラは古いものでも尾が捻れていた。
「密陀彩絵箱」の怪魚がマカラではないかと調べていたら、「瑠璃坏」の台脚裾に表された、尾が渦巻く怪獣の起源に辿り着いてしまったような気がする。
ひょっとするとこれもマカラを表したものではないだろうか。
関連項目
第64回正倉院展7 疎らな魚々子
第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い

第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「日本・インド国交樹立50周年記念 インド、マトゥラー彫刻展図録」 東京国立博物館・NHK編集 2002年 NHK
「東洋の造形 シルクロードから日本まで」 吉永邦治 1993年 理工学社
「西域記のシルクロード 三蔵法師の道展図録」 1999年 朝日新聞社

2012/11/20

第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い



今年の正倉院展は妙な生き物の表現が多かった

1 怪魚の頭部と胴を持つ鳥

密陀彩絵箱 みつださいえのはこ 中倉
縦30.0横45.0高21.4
『第64回正倉院展目録』は、献物用の箱。長方形、印籠蓋造で床脚が付く。箱組は4枚組接(くみつぎ)で釘を用いて各材を打ち付け、その上から厚さ0.2㎝、幅0.9㎝の薄板を貼り付けて押縁(おしぶち)を形成する。
黒漆塗の上に描かれた彩色文様は、膠で固着させた顔料の上から密陀僧(一酸化鉛)を混ぜた油を塗っている。彩色顔料については、赤色が鉛丹、黄白色が石黄と比定されているという。
目録の末尾には用語解説があり、そこに石黄 硫化砒素を主成分とする鉱物。黄色で樹脂光沢を有し、有毒である。雄黄ともいうとある。
『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』に顔料として載っていた石黄は硫化砒素だったのか。
蓋表中央の貼り紙の下には蓮の実が描かれていることがX線透過撮影によって判明している。その周囲に忍冬(パルメット)唐草文、その外周に怪魚の頭と胴をもつ鳥と鳳凰が2羽ずつ回旋し、さらに四周に忍冬文がめぐるなど古様な文様が施される。時計回りに統一されたモチーフの方向性や4羽の駆けるような形の細長い足が、旋回する文様の速度感をうみ、鳳凰らの湾曲した姿や怪魚の大きく反らせて開けた口は忍冬唐草文の曲線と呼応して、渦のような運動感を表しているという。
確かに渦を巻く空気の気配を感じさせる描き方で、文様帯として型にはまった表現をされることの多いパルメット文でさえ、炎のように燃え立ち、更に駆ける鳥たちの風に巻き込まれているかのようだ。このような動的な表現は、正倉院宝物では珍しい。特に記載がないので日本で作られたものらしい。
また、この箱のパルメット文は蓮の葉を伴った唐草文となったり、中央では楕円形の蓮の実を取り囲んで反時計回りに捻れるなど、仏教美術の蓮というモティーフが入り込んでいる。
この鳥は怪魚の頭と胴を持つというが、怪魚に鳥の翼と足がついたものとも言える。
口から気を吐いて鳳凰を追いかけているようだ。
このような足や羽根はなかったと思うが、仏教ではマカラ(摩伽羅魚摩竭魚)という怪魚がいたような気がする。
身側面は、忍冬唐草文と怪魚の頭部が規則的に並び、律動感と秩序が並存する。床脚にも蕨手状の草文が配されるという。
上側の唐草文のうねりが伸びやかで素晴らしい。蓋の唐草文には蓮のような葉があったが、ここでは対生の葉から茎や花柄が出ていて、蓮ではなかった。
怪魚の頭部や気炎の先をパルメットで表すなど、パルメットが文様から脱して面白い。
赤い歯茎から鋭い歯が1本ずつ出ているところなど、妙にリアルな印象を受ける。
口から吐いているのは気炎というよりも火焔のようで、ますます怪獣度が高まっている。
これがどこで作られたか明記されていない。その場合は日本で作られたということのようだが、この怪魚が日本人の発想で生まれたものと思えない。きっと伝来した品物にこのような魚が描かれていたのだろう。

池から怪魚が顔を出した図柄なら唐時代の銀器にあった。

鍍金龍池鴛鴦双魚文銀洗 ときんりゅうちえんおうそうぎょもんぎんせん 唐時代(7世紀) 銀、鍍金 高5.2口径14.5 白鶴美術館蔵 重文
『三蔵法師の道展図録』は、口縁の力強い反りな応ずるかのように圏台が裾広がりに作られた唐代金銀器を代表する碗形の器。内底には龍頭を中心に鴛鴦・鯰・鱗のはっきりした双魚等が泳ぐ霊池様を半肉彫り風に鎚起した鍍金銀板を接合するという。
怪魚かと思ったら龍だった。怪魚はマカラではなかったのか。

2 一角で馬頭と脚に蹄を持つ鳥、すなわち飛廉

紅牙撥鏤撥 こうげばちるのばち 北倉
長20.0最大幅5.7厚0.1-0.4
『第64回正倉院展目録』は、この品は象牙を撥形に成形し、全体を紅色に染めて文様を刃物で彫る撥鏤技法が用いられている。この技法は象牙を染料で染めた場合奧にまで浸透しない性質を用いたもので、彫り口は象牙の白い色を表す。本品は彫刻後要所に緑青と黄を点じている。文様は、一方の面では上部に草花に囲まれた麒麟を表し、中ほどから下端にかけては山岳、綬帯や瓔珞を銜えた鳥、草花、蝶、花台に乗る鴛鴦を表し、もう一方の面では一角の馬の頭と脚に蹄を持つ鳥を花台上に表し、それより下には綬帯を銜えた鴛鴦と鳥、蝶、草花、飛鳥を表しているという。
右上の麒麟は一角で翼を持つ馬のようだ。唐の順陵にあった天禄に似ている。 
一方、左上の鳥も一角で頭部は馬のようだ。
本品には一角の馬頭と脚に蹄を持つ鳥という珍しい意匠が表されているが、類例は中国西安市の何家村出土の六花形銀器(唐時代・8世紀)などに見ることができる。本品における意匠は麒麟や含綬鳥などの瑞祥的な性格のものであり、この鳥も瑞鳥の一種であったと考えることができるという。
会場ではやや斜めに展示されていたので、麒麟の描かれた表側を見せる工夫をしていたので、裏側は非常に見難かった。近くの壁に貼られた拡大写真で、やっとただの鳥ではないことが確認出来たが、薄暗かったので、角はわからなかった。
図録には白黒だが大きな図版があって細部までよくわかる。立派な角だけでなく、房々したたてがみもある。翼の先が渦巻いているのは、他の鳥には見られない特徴でだ。
そして脚には双翅と呼ばれる房毛も備わっていて、それは聖獣らしさを特徴づけている(『大唐皇帝陵展図録』より)ものらしい。
何家村出土の六花形銀器?余談だが何家村というのは「何」という姓の人々の住む村ということだろう。「何」は中央アジアのオアシス都市クシャーニヤ出身のソグド人が名乗った昭武姓(『文明の道3陸と海のシルクロード』より)ではないだろうか。
何家村出土の金属器は名品ぞろいだ。
『中国★美の十字路展図録』で何家村出土の六花形銀器を見つけ出したが、それは飛廉だった。飛廉は有翼の一角獣だと思っていたので、一角で馬頭と脚に蹄を持つ鳥と同じものだとは図版を見るまでは気づかなかった

飛廉文銀盤 銀に鍍金 唐(618-907)、8世紀初期 1970年陝西省西安市何家村出土 陝西歴史博物館蔵  
高1.2㎝口径15.3㎝
同展図録は、飛廉とは、中国の神話伝説に登場する獣頭鳥身の神獣であり、ここでは翼を広げて天空を舞う一角獣の姿によって表現されている。何家村からは、中央に動物を配した六弁形の盤が本作品を含めて3点出土しているが、ササン朝やソグドの銀器にも中央に動物文を施した作例が多数認められることから、外来の装飾法を中国の器物に応用したことが窺われるという。
角や翼の先など、細部の表現は異なるが、脚には双翅も備わり、紅牙撥縷撥の「一角の馬頭と脚に蹄を持つ鳥」が翼を広げたら、きっとこんな姿になりそうだ。

3 巻貝形蔓草状の気炎を吐く怪獣

瑠璃坏の台脚裾
あの瑠璃坏に取り付けられた脚部である。
脚は甲盛のある円板(以後、台脚裾と称する)に軸を立て、その上に坏を載せている。台脚裾と軸は一体である。台脚裾の上面は外周に沿って1本の輪郭線を引き、その内側に魚々子地に唐草文様を毛彫している。唐草文様は一部が怪獣の頭を表しているが、その向かいに怪獣の頭を感じさせる形が見えるほか、巻貝状を呈した特徴のある蔓を見ることができる。唐草文様には短い刻線を並列させた文様が随所に見えるという。
また、図録の「宝物寸描」で、「金工から見た瑠璃坏」は、坏身の底には蓮弁形の受金具が付き、長足の台脚が固着されている。台脚の裾には、粗い魚々子地に、気を吐きとぐろを巻く龍様の文様が刻まれている。
台脚裾には二つの唐草文が表されており、それぞれの右端と中ほどに巻貝形の蔓文様が見える。それは二重もしくは三重に巻いた蔓の先に火焔形に揺らめく先端部を表したもので、蔓には短い刻線を並列した文様が見えるという。 
最初は怪獣の尾が巻貝のように渦巻いているように見えたが、よく見ると怪獣は頭部だけが表され、首に巻きついた尾で輪っかとなっている。巻貝形の蔓文は、その怪獣の口から吐き出された気炎あるいは火焔だろう。
金銅製舎利外壺 韓国・弥勒寺西九重石塔発見 
2009年に韓国・益山市の弥勒寺跡西九重石塔から舎利荘厳具が発見され、そのうちの金銅製舎利外壺にきわめて近似した文様を見ることができる。この壺では胴部の肩に2本の文様帯を作り、下方の幅広の文様帯では巻貝状の蔓文様を表す唐草文を巡らし、上方の狭い文様帯では通常のパルメット文と両側が巻貝形の蔓文様を呈したパルメット文を交互に並べている。巻貝形の蔓文様は下方帯では三重、上方帯では二重に巻き、先端は火焔形に揺らめき、蔓に短い線刻文を並列させるなど、瑠璃坏の文様との近似性は一見して明らかであろうという。
ここには怪獣は描かれていないが、確かに巻貝形の唐草文様はよく似ている。
巻貝形の蔓文様は宝庫の鳥獣花背方鏡(南倉70-10)など唐代の海獣葡萄鏡にも僅かながら見ることができ、おそらく葡萄唐草文における蔓文様が始まりであったと推定されるが、管見の範囲において瑠璃坏のそれと最も近い造形を見せるものは弥勒寺跡発見の金銅製舎利外壺である。
弥勒寺跡西九重塔の舎利荘厳具には金製舎利奉安記があり、639年に舎利を奉迎したことが見えることから、金製舎利外壺もそれに合わせて製作されたと考えることができる。
植物文の形が徐々に怪獣の姿を呈するに至ったと考えた方が良いであろうという。
蔓文様から怪獣の胴体になったようで、怪獣の大きく開いた口から出ているのは気炎ではなかったようだ。
百済の美術には、東野氏が例に挙げた武寧王陵出土の銀製蓋付鋺のほかに、旋回する飛雲文が鳳凰へと姿を変える様を表した磚(韓国・扶余外里遺跡出土、6-7世紀)や、左右からの飛雲文が繋がり鳳凰の翼を表した磚(同)など、植物文や雲文などが動物や鳥へと姿を変える意匠を見ることができる。瑠璃坏の唐草文に表された怪獣も、百済におけるこのような文様表現の一つと考えることができようという。
この小考は、結果的に東野氏の推測を補強することとなったという。
それは、東野治之氏が『正倉院』(岩波新書、昭和63年)で韓国の松林寺五層磚塔から瑠璃坏ときわめて近い器形とガラスの輪形装飾を有する緑ガラス器を安置した金銅製舎利容器が発見されていることから、瑠璃坏が朝鮮半島経由でわが国にもたらされた可能性を指摘していることである。
金銅製舎利容器についてはこちら
正倉院宝物というと、唐から、あるいは唐を経てもたらされたもの、そして近年の調査からそれらを手本に日本で製作されたものという概念が固定されてしまっていた。他にも韓半島から請来されたものもあるかも知れない。

関連項目
第64回正倉院展7 疎らな魚々子
第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?
敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1
唐の順陵1 麒麟ではなく天禄
中国の一角獣の起源?
えっ、これが麒麟?
地上の鎮墓獣は
飛廉は花の名にも
敦煌でソグド人の末裔に出会った
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「シルクロード 絲繡の道2 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 橿原考古学研究所附属博物館
NHKスペシャル「文明の道3 陸と海のシルクロード」 NHK「文明の道」プロジェクト 2003年 日本放送協会
「四大文明 中国文明展図録」 2000年 NHK

2012/11/16

第64回正倉院展4 ヤツガシラは木画紫檀双六局だけ



正倉院展では年々ヤツガシラが表された作品の出陳が少なくなっていくようで寂しい。今年も目を凝らして探したが、結局「木画紫檀双六局」だけだった。

木画紫檀双六局 もくがしたんのすごろくきょく 双六盤 北倉
縦54.3横31.0高16.7
『第64回正倉院展目録』は、長方形の盤面に立ち上がりをめぐらし、盤の下に床脚を付けた姿で、床脚には長側面に2箇、短側面では1箇の格狭間を開け、脚の下に畳摺を回している。木胎(材は不明)の上にシタンの薄板を貼る構造であり、盤面や立ち上がり、脚の外側、畳摺は木画で装飾している。木画とは装飾する面に文様の形を彫り込み、象牙、獣の角、金属、種々の色の木材などを象嵌する技法で、本品ではツゲ、シタン、コクタン、象牙、緑色に染めた鹿角のほか、モウソウチクかマダケと推定される竹が用いられている。盤面は、長辺側は中央に象牙で三日月を表し、その両側に木画で花文を六つずつ表している。短辺側には中央に花文を一つ置いている。立ち上がりの内側には木画による折枝風の唐草文様を表している。立ち上がりの外側から床脚の外側にかけては一部に鳥を交えた華麗な唐草文様を飾っており、本品でもっとも見応えのある部分となっている。畳摺は上面に四弁花文、側面に小花文を飾っているという。
その長側面、格狭間の間の床脚にヤツガシラはいた。このヤツガシラは、今まで正倉院展で見てきたなかでは最大の部類に入るのではないだろうか。
「鳥を交えた華麗な唐草文様」のこの鳥がヤツガシラだ。
ゆったりと渦を描く蔓は、下で一本の茎に戻らず、厳密な左右対称の唐草文様となっている。
しかしながら、長側面の一つではヤツガシラは右側の茎をくわえ、もう一方の長側面ではもう一羽のヤツガシラが左側の茎をくわえて、左右対称の均衡を破っている。
この辺りに「和」或いは「倭」の嗜好、和様が出ているようでて面白い。
大きいとはいっても、薄暗い会場の中でヤツガシラの細部を見るのは容易ではない。
近年、鑑賞する人が理解し易い工夫が見られ、作品の近くの壁に拡大写真パネルが掛けられることが多くなった。
この作品ではこのヤツガシラ付近を大きく写し、木画の様子が分かり易いようにしてあった。それでも冠羽の細部までは確認できなかった。
目録に大きな図版があったのは幸いだった。
冠羽は黒、続いて白で終わっている。
ヤツガシラは、日本では実家の庭に一瞬降り立ったのを見たことがあるが、海外に行くと割合に見かける鳥だ。ただ、警戒心が強いので、カメラに収めること自体が難しく、やっととってもピンボケになってしまう。
アブシンベル神殿からの帰り、アスワンハイダムに沿った道では、驚いたことに、ヤツガシラが人の近くに平気で降りてきて、虫を探して歩き回っていた。
冠羽を広げたりもしていたような気もするが、やっとピントの合ったものは斜め後ろ向きで、しかも冠羽はしっかりと閉じている。しかし、木画のヤツガシラのように先が白くはなく、黒いように見える。
『山渓カラー名鑑日本の野鳥』は、頭に先の黒い大きな冠羽のある、上半身が黄褐色の鳥。ユーラシア大陸とアフリカの熱帯から温帯で広く繁殖する。日本には稀に旅鳥として春秋に飛来し、春の記録が多い。
冠羽はふだん寝かせているが、驚いた時などには立てることもあるという。
同図鑑でやっと冠羽を広げたヤツガシラの画像を発見。
八つどころか十以上の羽根を扇のように広げている。それらの羽根は白、続いて黒で終わっている。
咸陽郊外の唐の順陵でもヤツガシラは見かけたので、当時都があった長安(現西安)でも普通にいる鳥だったはずだ。
日本ではあまり見かけない鳥なので、唐からの将来品を見て真似ているうちに、白と黒の順番が入れ替わってしまったのだろう。
正倉院にはもう1点、木画で表されたヤツガシラがある。

紫檀木画槽琵琶裏面 南倉
やはり白と黒が実際のヤツガシラとは反対になっている。
一点でもいいから、毎年正倉院展ではヤツガシラを見たいものだ。

関連項目
第63回正倉院展1 今年はヤツガシラが少ない
第62回正倉院展1 今年のヤツガシラ
今年も正倉院展にヤツガシラ
正倉院展の楽しみはヤツガシラ探し

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「第61回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2009年 財団法人仏教美術協会

2012/11/13

第64回正倉院展3 今年は隋経



写経や正倉院古文書などの展示は一番最後と昔から決まっていて、昔はこの辺りまで来ると鑑賞する人の姿はまばらだった。見学の疲れと文字に対する興味のなさで通り過ぎる人が多かった。
しかし、近年はその様子が一変した。最後まで人だかりが絶えないので、ここを見て回るだけでも時間がかかるのだった。

今回もその周囲だけ空気が張りつめているような経典があった。それは前回驚いた唐経よりも古い、隋経だった。

賢劫経 巻第十一 (隋経) 大業3(607) 聖語蔵 
縦26.1 長693
『第64回正倉院展目録』は、聖語蔵に伝わる経巻のなかで「隋経」(隋時代の写経)と分類されるもの。聖語蔵とは、もと東大寺尊勝院の経蔵であった校倉造の蔵で、のちに宝庫東南に移設された。ここには五千巻に及ぶ経巻が納められている。
本巻は、幅50.3㎝前後の料紙を14紙継ぎ、朱頂軸を付す。淡墨で界線を引き(界高約19.4㎝、界幅1.8㎝)、経文を墨書する。1紙28行、1行17文字である。料紙は薄手で黄褐色を呈す。巻第二の料紙調査において、原料にコウゾを利用していることがわかっている。なお、巻第一には、大業3年(607)の奥書が確認出来る。
本品を含む聖語蔵隋経の『賢劫経』は十三巻まで確認され、巻立てが異なっているという。
大業といえばあの煬帝の使った年号だ。
ウィキペディアによると、第2回遣隋使として小野妹子が派遣された年でもある。遣隋使は推古8年(600)から推古26年(618)の18年間に5回以上派遣されているので、この間に日本に将来された写経かも知れない。小野妹子が持ち帰った可能性もあるのではないだろうか。
前回出陳された唐経と比べると全体に線が細いような印象を受ける。
諫王経 かんのうぎょう 光明皇后御願経 天平8年-天平勝宝8年(736-756) 聖語蔵
縦26.5長223.6
光明皇后が亡き父母(藤原不比等・橘三千代)のため書写させた一切経、「五月一日経」のうちの一巻。この書写事業は、玄昉が唐から請来したばかりの五千余巻を底本とし、 略
書写総数は七千巻に及んだと推定され、うち750巻が聖語蔵に伝わる。
本巻は、黄麻紙5紙を継ぎ、太手のシタン撥型軸を付す。淡墨で界線を引き(界高19.7㎝、界幅1.8㎝前後)、経文を墨書する。1紙幅は45.4㎝前後で、1紙24行、1行17字であるという。
前回も光明皇后御願経の一つ最無比経が出陳されていた。
玄昉は養老元年(717)に帰国することのなかった阿倍仲麻呂や井真成らと唐に渡り、天平7年(735)年に五千巻もの経典を携えて帰朝した。日本に請来されたばかりのその経典を手本として写経されたものの1巻がこの諫王経だ。
上の隋経とは100年以上後に写経されているので、字体もだいぶ違っているはず。
大乗悲芬陀利経 だいじょうひふんだりきょう 巻第4 称徳天皇勅願経 
天平勝宝8歳(756)に崩御した父、聖武天皇のために、称德天皇が書写させた一切経。巻尾に神護景雲2年(768)5月13日付の願文があり、『正倉院聖語蔵経典目録』において「神護景雲二年御願経」と分類される。内裏系統の写経所において、天平宝字2年(758)6月以前から書写が行われていたことが知られる。
本巻は、薄茶色の荼毘紙を用いた表紙に茶色の麻紙を29紙継ぎ、太手の赤密陀撥型軸を付す。淡墨で界線を引き(界高23.6㎝、界幅2.3㎝前後)、経文を墨書する。1紙幅は55.4㎝前後で、1紙24行、1行17字である。筆跡は太細の差が少なく、硬さと鋭さをもつ。文字は大ぶりで、紙数が進むとやや行書風のくずれが見られるようになるという。
遣唐使が持ち帰った経典を手本にしたので、新しく請来された経典によって日本の写経の字体が変わっていくという。
758年に最も近い遣唐使の帰国は天平勝宝6年(754)。その時の遣唐副使が吉備真備、あの鑑真を伴って帰朝している。
吉備真備も新しい経典を持ち帰ったのだろうか、それとも鑑真が持ってきたのだろうか。
手本がどの年に請来されたものか不明だが、この写経は、遠目にも分かるくらい太書きされている。そして、縦横がそろわず、どちらかと言えば横長だった奈良写経の字体とは異なり、縦長気味の文字が並んでいる。平安写経の先駆のようでもある。
写経や正倉院古文書が展示されているコーナーに、意外なものがあって驚いた。何の器械かと思ったら、書見台らしい。

紫檀金銀絵書几 したんきんぎんえのしょき (書見台) 南倉
巻子を広げて見るための書見台。向かってさ側の受けに巻子を載せ、受けに附属する細木の隙間を通して左から右へと繰り延べた紙面を、右側の受けに巻き取りながら見たと考えられる。方形の台座は四辺が僅かに内曲して対角線上に稜角を作り出し、 その上に蕪形の柱座を載せ、中央に七角形の柱が立つ。
近年の研究で、本品と近似する形態を持つ経巻を広げ見るための台が中国・敦煌莫高窟の盛唐期壁画中に少なからず見いだされ、これらが唐代の文献にしばしば登場する「経架」に相当するという注目すべき指摘がなされている。これを踏まえれば、本品は何らかの仏教儀式に用いられた可能性が考えられるだろうという。
「中国石窟 敦煌莫高窟」を調べてみたが、探し出せない。どのような場面で経架が描かれているのだろう。
柱頭の唐草を象った刳形上面に枘を設け、ここに小円形の受けを作り出した左右一対の腕木2本を取り付ける。受けにはスリットのある割り箸形の細木を立て、これに巻子を支える金銅製の鐶と、繰り広げた紙面を支えるため糸を張ったと思われる金銅小鐶が、それぞれ上下1箇ずつ付く。
一見して華奢な構造のため、日々の実用に耐えうるものであったとは考えがたいという。
下の写真が添えられていたので、本当にこのようにして勉強していたのかと思ってしまった。

関連項目
第63回正倉院展6 唐の写経と奈良写経
鑑真さんと戒壇院

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会

2012/11/09

第64回正倉院展2 小さな瑠璃たち



今回、瑠璃坏以外の瑠璃(ガラス)も、文字通り小粒ながらたくさん出陳された。小さなガラスが間隔をあけて、下側が銀色になったガラス板に並べられていた。
透明なガラスには小さな気泡が無数に入っているのが見て取れる。
小さな瑠璃それぞれの色がガラス板に映っているのもなかなか良かった。見せる、或いは魅せる工夫が窺われた。
また、近くの壁には拡大した写真が貼られたりして、鑑賞者への配慮がされているのだが、残念ながらその画像には、これらのガラスの透明、半透明の持つ雰囲気というものが消えていた。

瑠璃双六子 るりのすごろくし 北倉 藍色・浅緑・黄・緑
径1.3-1.5厚0.6-0.8
『第64回正倉院展目録』は、偏平な球形をした色ガラス製の双六の駒。
黄瑠璃双六子は鉄、浅緑瑠璃双六子と緑瑠璃双六子は銅を着色剤とする鉛ガラス製で、藍色瑠璃双六子のみ国内では産しないコバルトを着色剤とするアルカリ石灰ガラス製である。
興福寺西金堂の造営に関する文書である「造仏所作物帳」(『続正倉院古文書』第34巻、中倉16)の造玉に関する記事によれば、黒鉛を熱して丹を作り、さらに白石を混合したものを熔融して鉛ガラスが製造されていたことや、20万枚を越える多量のガラス玉が製造されていたことが知られるという。 
雑色瑠璃 ざっしょくのるり 中倉 色ガラスのねじり玉 径0.5-2.1
「雑色瑠璃」として整理されているガラス玉の一部で、捩玉(ねじりだま)と梔子玉(くちなしだま)と呼ばれている。融かした単色のガラスを金属の棒に巻き付けて丸玉を作り、まだ柔らかいうちに棒を押し付けて5-7弁を作り出したものが梔子玉、さらにその弁を摘んで左右に捩ったものが捩玉である。青色系統の玉は一般にアルカリ石灰ガラス製であるが、梔子玉と捩玉ではそれを素材とする例はごく僅かで、ほとんどが鉛ガラス製と考えられている。
中国寧夏族自治区固原市史道洛墓(唐・顕慶3年、656葬)から鉛ガラス製の捩り花弁が出土しており、このあたりに技術的系譜が辿れるかも知れないという。
碧瑠璃 緑ガラスのかざり玉 中倉
径2.5-3.7
水滴状に下膨れした形状の玉を一般に露玉という。
発色は緑ないし濃緑色で鉛ガラス製とみられる。
布幕や幡などの下端に飾りとして取り付けられたものと推定されているという。
雑色瑠璃 色ガラスのトンボ玉 中倉
径0.5-2.1
二色以上のガラス素材を用いて文様を表した玉をトンボ玉と称する。宝庫のトンボ玉はすべて横縞文様のいわゆる雁木玉で、現在一般に想起される同心円(目玉文様)や斑点を象嵌したトンボ玉は皆無である。素地の色は黄・褐・緑・淡緑・濃緑・赤褐色などがあり、そこに白・黒・褐・黄・緑色などの縞を乗せている。素材はほぼすべて鉛ガラスと推定されるという。
碧瑠璃小尺・黄瑠璃小尺 ガラスの腰かざり
碧:長6.4幅1.8厚0.5
黄:長6.9幅1.9厚0.4
半透明の色ガラスで作られた小さな物差し。それぞれ一端に穿たれた小孔に縹暈繝の長い組紐が通され、上方で双方は結ばれている。碧瑠璃小尺は銅を着色剤として緑色に発色した鉛ガラス製で、表裏の両側に金泥で二寸五分の目盛を付けている。黄瑠璃小尺は鉄を着色剤として黄色に発色した鉛ガラス製で、碧瑠璃小尺に比べてやや長く、表裏の両側に銀泥で三寸の目盛を付けている。
宝庫には刀子、魚形など組紐が結びつけられた宝物が多数伝わっている。それらの品は、奈良時代の組紐が結びつけられた宝物が多数伝わっている。本品も同様に佩飾具とされるという。
今でいうストラップのようなものだが、これは慶州出土の金製の銙帯に下げられた腰佩にもありそうに思えてきた。
正倉院宝物にはやはり組紐のついた魚形の瑠璃製品もあり、慶州出土の腰佩にも金の板を魚形に切ったものがある。
きっと東アジアでは、長い間ベルトから様々なものをぶら下げるのが流行していたのだろう。
これらの瑠璃製品を作るにあたって、それぞれの色のガラス板を先に作っておいたことが、正倉院に残る破片からわかっている。

瑠璃玉原料 ガラス玉の原料 中倉
不規則に割られたガラス板の破片で、宝庫にはおよそ2-8㎝大の破片が100片近く伝わっている。熔融したガラスを鉄板上に流し、薄い餅状に固まったものを破片にしたものとみられる。破片の端には表面張力による自然の円弧がみえ、元の餅状の塊は直径20㎝前後、おそらく坩堝一杯分のガラスであろうと推定される。
破片の色は黄・褐・緑・紺・白の系統がみられ、同系色でも濃淡の違いや中間色を呈するものがある。紺色の材質はアルカリ石灰ガラス、他色は鉛ガラスで、黄・褐色系は鉄分を着色剤にし、緑系は銅分を加えたものであるという。
2012年11月2日放送のABCテレビ「天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」では、石川県の能登島ガラス工房で正倉院ガラスの復元を行っている場面が紹介されていた。
小さな穴が縦横に並んだ鋳型に色ガラスのかけらを置いていき、炉で加熱していた。
ガラスの主な原料は珪砂と鉛丹、鉛丹は正倉院宝物の「丹」にあたる。現代のクリスタルガラスと違わない。違うのはその分量だ。クリスタルガラスは今の日本の規格では、鉛丹が24%以上含まれるとOK。一方奈良時代では74%、現在の3倍にあたる。鉛丹は光沢と透明度を増す働きに加え、ガラスを熔け易くする働きがある。現代では1300℃以上の高温でガラスを溶かすが、奈良時代はその温度を下げるために、丹を大量に使っていたと考えられる。
熔けたガラスを鉄の棒で取り出し、更に熱を加えながら板や棒状に形を整える。形が整うと徐冷し、それぞれの形へと仕上げていく。
双六子は電気炉で830℃で溶かし、徐冷するというナレーションだった。
奈良時代には、74%もの鉛丹を混ぜることによって、830℃で溶けるガラスを作っていたのだ。

今回は「丹」も出陳されていた。

丹 ガラスや釉薬の原料、絵の具
丹は化学的には鉛の酸化物(Pb3O4)であり、鉛ガラスの原料または釉薬として、あるいは彩色の顔料として用いられた。
宝庫の丹の裏(つつみ)は、粉末状の丹を紙で包み、上部をとじて紙紐で結ぶ巾着状を呈する(図版は開いた状態)という。
実は最近敦煌莫高窟のことばかりまとめていたので、正倉院展でこの「丹」を見て、鉛と言えば鉛白の白い色とばかり思っていたが、鉛丹の丹色もあったのかと、ピントはずれなことに思いがいった。
この「丹」を出陳した意図が、加工する以前の瑠璃の板の破片と共に、瑠璃製品がどのようにして作られていたのかを紹介することだと理解できたのは、見学した翌日に放送されたABCテレビの天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」を見たからだ。

関連項目

第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
鹿石の帯に吊り下げらた武器と新羅古墳出土の腰偑
慶州天馬塚の金製品

※参考にしたテレビ番組
「天平・瑠璃のきらめき 正倉院展2012」 ABCテレビ 2012年11月2日

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会