お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/06/30

石窟庵(ソックラム 석굴암)の如来坐像は統一新羅の最高峰

『世界美術大全集東洋編10』は、甘山寺の石仏によって、粒子の粗く硬い花崗岩を扱う技術が、完璧な段階に達していたことを確認できる。このような技法の発達と宗教思想の成熟が、中央集権化を強化しようとする政治目的と合致し、慶州に石仏寺(石窟庵)と仏国寺が建立されるようになる。
石窟庵は751年に建立が始まり、775年ごろに完成されたと考えられる。本尊が完成したあとに周壁彫刻をはじめとする建築物が造られたと見られ、本尊は755年ごろには完成していたと思われる 
という。甘山寺の石仏は720年頃の造立だが、この石窟庵の浮彫を含む諸仏そして主尊の如来坐像は造形において全く異質と思えるくらいな完璧さである。

石窟庵は正面からしか見られないので、奧の主室の大きな如来坐像を数m手前から眺めることになる。
バランスのとれた身体と、それに無駄な衣褶をすべて省いた衣文、そしてきりっとしまった表情が荘厳な雰囲気を醸し出している。天平勝宝4年(752)に聖武太上天皇が開眼供養を行った東大寺の盧舎那大仏とほぼ同時代に造立された。現在の奈良の大仏っつぁんは江戸時代の顔だが、聖武さんが見たのはこのような顔だったのだろうか。それとも、中国から離れて独自の仏教美術を花開かせた統一新羅と、おそらく最新流行の唐の様式を採り入れたであろう奈良の仏像とでは、かなりの違いがあったのだろう。 結跏趺坐した足の前に扇状に広がる衣端、大衣を身に着けて結跏趺坐すると本当にこのようになるのかどうかわからない。この像に装飾的という形容詞を使うとしたら、この衣端くらいのものだろう。
もう1つ気になるのはこの石仏が大衣を偏袒右肩に着ている。これは見慣れた雲崗石窟第20窟の大仏のように涼州式偏袒右肩ではなく、インド・マトゥラー風の着衣なのだ。ひょっとしてこれも直接インドからもたらされた様式かも知れないなあ。
8世紀中葉の仏像のなかで、もっとも美しくかつ最大の像で、記念碑的な存在ともいえるのが、石窟庵の降魔触地印の本尊如来坐像である。  ・・略・・  インドのグプタ様式を反映した本尊の完璧な彫刻は、正覚の象徴性とともに、仏教文化圏におけるもっとも偉大な彫刻品の一つといえようという。やっぱり直接グプタ朝の造像様式が伝わったみたいだ。 石窟庵は全く彩色されていないと思っていたが、唇に赤い色が残っている。頭部にぎっしりと並んだ螺髪も一つ一つ丁寧に彫られている。 頭光が壁面に表されているというのは正面からではわからない。そして正面から見られないものに、如来背後の十一面観音菩薩像、そして十大弟子像がある。十大弟子像は同じ方向を向いているのだ。 と思ったら、十一面観音菩薩像の左横には正面向きの弟子がいる。迦葉だろうか。
上部がドームとなっている。ところどころある出っ張りはなんだろう? 
※参考文献
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「仏国寺・石窟庵」(李性陀) ・絵葉書 

2008/06/27

慶州石窟庵(ソックラム 석굴암)の見えない仏像は



石窟庵は内部に入れない。正面からガラス越しに眺めるだけなので、主室は見えていない箇所の方が多い。後日絵葉書や書籍で見て驚いた。 掘仏寺址の四面石仏南面の浮彫二立像によく似ているのだ。

窟室から主室なってすぐの壁面に、梵天像と文殊菩薩像が浮彫されている。どこを見ているのだろうか。主尊ならば、主室中央に座しているので、正面向きで良いはずだ。それに文殊菩薩は三曲で自然だが、梵天の方は体をねじって不自然な感じがするが、それを除けば、柔らかい着衣の表現はすばらしい。 26 観音菩薩立像 洛陽、龍門石窟万仏洞外南壁 唐・永隆2年(681) 
初唐の浮彫像である。敦煌莫高窟よりも都の長安に近いので、当時の中央様式と言ってよいだろう。自然に体は三曲しているが、顔は傾いても正面を向いている。それを除けば、着衣は裾の長さまで、石窟庵の菩薩・天部像とよく似ている。5甘山寺伝来弥勒菩薩立像よりずっと石窟庵の浮彫に近い。そして、左側には帝釈天像(反対側が梵天なので)とおそらく普賢菩薩像(同じく文殊菩薩なので)が斜め向きに浮彫されている。
四面石仏南面の浮彫仏立像は帝釈天像の着衣に似ているが、石窟庵をまねたのだろうか。それとも四面石仏の浮彫仏立像はまだ稚拙な造形で、石窟庵の浮彫は完成した様式なのだろうか。27 日光菩薩立像 薬師寺金堂 奈良時代(8世紀初)
『カラー版日本仏像史』は、飛鳥薬師寺の本尊は、持統2年(688)頃の完成と推定されるが、天武14年(685)開眼の山田寺講堂本尊像(興福寺仏頭として現存)は、同じ頃に中央で造られた丈六ブロンズ像である。ところが、現存の薬師寺像とこの仏頭との間には、大きな差違が認められる。鋳造技法の面では、仏頭より進んだ技術で鋳型が固定され、良好な鋳上がりを示す。  ・・略・・  現存像は平城新鋳とみるのが合理的である。近年の発掘結果も建物の移築には否定的で、この点も新鋳説を補強する。700年前後の唐彫塑との共通性があるという。この像を700年前後の唐の様式とみても良いだろう。この像にも似ているのではないだろうか。
さて、主尊の背後、光背の下には十一面観音菩薩像が正面を向いて立っている。この像だけが正面を見据えている。といっても、仏像は正面を向いているのが普通である。
28 観音菩薩立像 法隆寺 唐(7~8世紀)
着衣や装飾物など石窟庵の十一面観音菩薩像によく似ている。新羅の仏像は全体に肩幅が狭いが、法隆寺の観音菩薩立像よりもバランスが良い。 『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、8世紀中葉になると新羅は唐の影響から脱皮し、独自の道を歩み始めたという。新羅では、唐からは700年前後までの様式を採り入れて、それが独自の様式として完成したのが石窟庵ということになるだろうか。その独自性の中に、斜め向きの浮彫像も入るのではないか。

また、十大弟子像の上部龕室には蓮華に座した菩薩像などが置いてある。このような片方の脚をおろし、片方の脚は曲げている遊戯座という座り方をする仏像はあるが、このようにな座り方をする仏像は見たことがない。これも新羅の独自性なのだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」(1997年 小学館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「カラー版日本仏像史」(水野敬三郎監修 2001年 美術出版社) 

2008/06/25

慶州石窟庵(ソックラム 석굴암)の仁王像と四天王像

石窟庵の内部は正面から、ガラス越しにしか見学できないが、外には内部の平面図と立面図のパネルがあり、どのような構造になっているのか、予備知識を得ることができる。 前室は両壁に八部衆が4体ずつ並んでいるが、残念ながら、本にも絵葉書にも写真がない。

丸彫に近い仁王像がこちらを向いて窟室前の両側に立っている。足を踏ん張ってこぶしを振り上げている。しかしながら翻った衣の端はくるくると巻いて図式化が見られる。衣文は体に沿って、折り目の広がる様子もリアルなのとギャップがあるなあ。顔のすごさの割に、胸部の肋骨や筋肉がただの装飾になってしまっている。こういう矛盾した表現がみられる。 善徳女王の634年に創建された芬皇寺の模磚塔には四面に扉口があり、それぞれ仁王像が守っている。 芬皇寺の仁王像よりも石窟庵の方が動きがあるようには思うのだが。

そして窟室両側に2体ずつ表された四天王像。こちらも高浮彫だが、仁王像ほどではない。
24 四天王像 慶州四天王寺址出土 彩釉磚 統一新羅(679年頃)  国立慶州博物館蔵
土でつくったものなので、細密に造形されているため、石を彫ったものと単純に比較することはできないが、精緻な表現とさえ言えるような作品である。25 四天王像 慶州四天王寺址出土 彩釉磚 統一新羅(679年頃)  国立慶州博物館蔵
こちらも彩釉磚だが、衣の端の帯文様の唐草文など伸び伸びと素晴らしい。軒平瓦の文様と同じと言われればそれまでてあるが。 1世紀ほど前にこのような表現ができたのなら、石彫とはいえ、柔らかい衣の表現ができるようになっていたのかも。

※参考文献
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「仏国寺・石窟庵」(李性陀)

2008/06/23

薄い衣は中国でどうなったのか


18 菩薩立像 塑造 北魏(5世紀後半) 甘粛省天水市麦積山石窟第80窟東壁
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、麦積山石窟も5世紀始めごろに開かれたと推定される。現存する塑像や壁画に雲崗様式の影響は見られず、むしろ炳霊寺第169窟や敦煌莫高窟第272窟(北涼時代)など北魏以前の十六国期塑像の伝統が認められるという。12の炳霊寺石窟第169窟仏立像と同様に細身だが、着衣はこの像の方が厚い。 19 仏坐像及び立像 雲崗石窟第20窟  雲崗石窟初期(北魏、453-470)
曇曜5窟の中で最も早く造立された窟。主尊は涼州式偏袒右肩(右肩に大衣がぺろっとかかる)、左脇侍の如来立像は通肩。坐像の方が薄手の着衣なのは、マトゥラーの伝統だろうか。 通肩の着衣は衣褶が深い。どちらも着衣が体に密着している。20 仏立像 雲崗石窟第16窟 雲崗石窟初期(曇曜5窟の中で最も遅い) 
服制が漢族の双領下垂式に変わった最初の仏像で、分厚い。北魏の都平城郊外の雲崗石窟では、5世紀後半、すでに薄い衣は廃れてしまったのだ。21 釈迦仏立像 成都万仏寺址出土 梁、中大通元年(529)
『中国の仏教美術』は、梁・武帝の子が入蜀後に造らせたことがわかり興味深い。全高150㎝、通肩に大衣をまとい、薄手の衣を通して体の線を見て取ることができる。こういった大衣と肉体の関係は、インド・グプタ時代5世紀の彫刻に源を発し、炳霊寺第169窟7号立像、涼州様式を継いだ雲崗初期造像にもみることができ、インドからこういうかたちを学ぶ第何波目かの流行に乗り、造られたと考えられる。通肩に着る大衣の衣文線が、右半身に大きく弧を描いて左右対称性を破るなど、中国北部ではなかなか見ることができない要素もあり、グプタ時代の像によく学んでいるという。南朝では6世紀前半にまだ仏像は薄い衣を纏っていたのだ。22 釈迦如来諸尊立像 成都市西安路出土 梁時代・中大通2年(530) 成都市博物館蔵
『中国国宝展図録』は、中国式に衣をまとった釈迦立像を中心に、菩薩像と淺浮彫の比丘像を4体ずつ、天王像と獅子をそれぞれ1対で表すという。21の薄いインド風釈迦如来の1年後に造立されたこの釈迦如来は、分厚い中国式の服装をまとっている。南朝では両方の様式が混在していたのだろうか。  23 杜僧逸阿育王像 石造 成都市西安路出土 梁・太清5年(551)銘 成都市文物考古研究所蔵
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、左手に懸かった衣が幅広く平行線を描いている点や、左肘の下を深く彫りくぼめてい腰の屈曲を強調するなど、各所にこの時期のふつうの如来立像には見られない表現が現れている。万仏寺址出土のなかに、以前から銘文によって阿育王像と知られていた1体がある。北周時代(556-581)に入ると考えられるこの像は、体部の表現が本像と完全に一致するが、それと同じ等身像の体部が万仏寺址石仏にはさらに2体あるという。顔を見るとガンダーラ風やね。 南朝では6世紀中頃から後半にかけて、このような体の線がわかる薄い着衣の仏像が造られていたようだ。しかし、清州市龍興寺遺跡出土の仏立像とは同じ系統とは思えないなあ。
というように、南朝では薄い着衣の仏像が造られ続けたようだ。しかしそれが、清州や慶州へ伝播していったようでもない。直接インドから伝わったのかは、もっとわからない。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「中国の仏教美術」(久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂)
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)

2008/06/20

身体にそった着衣はインドから?


清州市龍興寺址出土の仏立像(北斉時代、550-577)といい、慶州市甘山寺伝来の阿弥陀如来立像(統一新羅、720年頃)といい、インドからの直接的な影響という可能性があるという。 インドから将来されたという薄い着衣で思い浮かべるのは、炳霊寺石窟の仏立像である。

12 仏立像 炳霊寺石窟第169窟北壁第7号 五胡十六国・西秦(5世紀前半) 
『中国の仏教美術』は、甘粛省蘭州の郊外、西秦の都のあった永靖郊外に炳霊寺石窟はある。興味深いことは、5世紀前半のインド・グプタ期のマトゥラー彫刻にみられる特徴をいくつか備えている点である。まず第一に、マトゥラー仏立像の多くは等身大あるいは2m前後の大像であるが、炳霊寺7号立像もまた2.45mにおよぶ大像である。中国に現存する像の中で、「仏の像」をこれほど大きく表現した例は、この炳霊寺像が初めてである。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる特徴を炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値する
という。私もこの本を読んでずっと頭の片隅に残ってはいた。
仏立像 マトゥラー・ジャマールプル出土 グプタ朝(5世紀) マトゥラー博物館蔵
『インド・マトゥラー彫刻展図録(以下『マトゥラー展図録』)は、腰布の上から薄手の大衣を通肩にまとい、右足に体重をかけわずかに体をひねっている。薄い衣を通して、均整のとれた充実した肉体が感じられる。大衣には隆起した衣文線が平行して表現されている。両手から体前に垂れ下がるU字型の大衣の端は細かい襞をたたんでいるという。確かに12の仏立像とよく似ている。
しかし、マトゥラー仏はそれ以前から薄い着衣をまとっていたのではなかったか。

14 仏立像 砂岩 クシャーン朝(2世紀) マトゥラー博物館蔵
クシャーン朝のマトゥラーとガンダーラの間には盛んな交流があり、相互に影響が及んでいたことが、仏像のスタイルにも現れている。本像は、両肩をおおう通肩の大衣をまとい、右手施無畏印、左手は肩の高さにあげて衣の端を持ち、  ・・略・・  大衣はやや厚手という。肩のあたりと衣端は確かに分厚いなあ。 
15 仏坐像 赤色砂岩 マトゥラー 1-2世紀 クリーヴランド美術館蔵
『ブッダ展-大いなる旅路展図録(以後ブッダ展)』は、中インドのマトゥラーは、西北インド(パキスタン)のガンダーラと並んで最初に仏像を制作したことでせ名高い。偏袒右肩(右肩をあらわす着衣法)に纏った大衣は薄く、肉身が透けて見えるように表し、わずかに左肩に平行線状の襞を加えるという。 左腕にかかった衣は体の極端に厚手だが、上半身に着た大衣はかなり薄い。 16 仏上半身像 砂岩 マトゥラー出土 3世紀 マトゥラー博物館蔵
『マトゥラー展図録』は、厚手の衣を通肩にまとい、右手は施無畏印を結び、左手は失われるがおそらく肩の前で衣の端をつかんでいるはずであるという。この像は顔立ちもマトゥラー仏らしくないが、通肩の着衣に至っては、鎧のようだ。頭部も妙である。ガンダーラ仏を見ながら真似したらこのようになってしまったのだろうか。このように、マトゥラーでの伝統的な偏袒右肩という着衣は薄く、外来の通肩は厚い傾向がうかがえる。おそらく、暑いマトゥラーの服装は身体が透けるくらい薄手で、見慣れたものだったので、それを像として表すことはできたのだろうが、仏像の着衣としてガンダーラから将来された通肩の服装を表現することに馴れていなかったのではないだろうか。

17 仏坐像 赤色砂岩 4世紀 マトゥラー クリーブランド美術館蔵   
『ブッダ展図録』は、マトゥラーはクシャーン朝(1世紀中頃-3世紀中頃)に引き続いて、グプタ朝(4世紀中頃-6世紀中頃)においても仏像制作の中心地であった。この像にはクシャーン朝からグプタ朝への過渡期的な造形様式の特徴が見られ、ポスト・クシャーン朝、あるいはむしろ初期グプタ朝の時代の作品とみられる。ポスト・クシャーン朝(3世紀中頃-4世紀中頃)のマトゥラー仏は、ガンダーラの影響を受けて大衣を通肩に纏い、規則的な平行線状の衣文線と、枠組みに支配されたような固い肉体表現に特徴があるが、この像は衣を通しての豊かな量感が目立っており、グプタ様式に近いという。
このように見ていくと、通肩の着衣の仏像が透けるように薄く、衣端の細かい翻りという、5世紀前半に涼州に伝わったのは、やはり同じ頃のグプタ朝マトゥラー仏の様式だったことが理解できた。
しかし、5世紀前半に涼州(河西回廊)という辺境の地に伝わった様式が、6世紀後半の中国の東の端、山東省へと伝播していったのだろうか?そしてそれが8世紀前半の統一新羅へと伝わったのだろうか。それとも直接インドから伝わったのだろうか?

※参考文献
「中国の仏教美術」(久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂)
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「インド・マトゥラー彫刻展図録」(2002年 NHK)
「ブッダ展-大いなる旅路展図録」(1998年 NHK) 

2008/06/18

新羅石仏の気になる着衣を山東省に探す

掘仏寺址の四面石仏の南面二立像の菩薩と、国立慶州博物館野外展示の菩薩立像で気になったもう1つの点は、新羅仏らしくない着衣だった。 装飾的な着衣で思い出すのは、山東省の菩薩像である。装飾的な着衣は隋時代の特徴だと思っていたが、それが北斉から始まることがわかった。

6 菩薩立像 石灰岩 北斉~隋時代(6世紀後半) 1988年、山東省諸城市南郊出土  諸城市博物館蔵 
『中国国宝展図録』は、北斉(550~577)の滅亡後、北周(577~581)によって華北に廃仏の嵐が吹き荒れた際に、埋納されたのではないかと推測されている。
衣や装飾物が身にかかりあるいは交差するさまを背面まで巧みに表現するとともに、引き締まり、かつ伸びやかな体軀を手際よく形作っている。すらりと均整のとれたしなやかな肢体を見事に表現した秀作
という。それならば、隋まで時代を下げなくても良いのではないだろうか。
このように北斉ですでに十分に装飾的だが、穏やかな顔と動きのない身体という北斉のもう1つの面も現れている。7 菩薩立像 石灰岩 北斉時代 安丘市紅沙河鎮吴 安丘市博物館蔵 
同じ時代の山東省でも、地域によって特徴がある。
『中国山東省の仏像展図録』は、柔らかで現実味を増した成人の成人の容貌をもち、自由な方向にうねる葉をもつ、清楚な素弁の蓮華上に、腰をひねるようにして立っている という。そして、装飾品の多さだけでなく、冠を留める帯にも三つの円形の飾りが付けられており、これを結ぶ帯の緒は、耳の上で一度翻って、両肘に懸かって天衣に沿うように垂れているというように、凝りに凝った装飾で荘厳している。このように、北斉時代の後半になると、西方の様式はさらに中国化され、西方風に由来する颯爽とした体軀に、中国風の華やかな装飾性を加味した像が生み出されたという。北斉前半の仏像はどんなだっただろうか。

8  仏立像 石灰岩 北斉時代 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
低い肉髻、丸い顔、肉体の起伏を鮮やかに伝えている薄い衣、ゆったりとU字状に刻まれた衣文の表現など、造形的特徴はすべてがインドの様式に淵源する北斉様式の特質を備えているという。 と、西方というのがインドの様式であることを示唆している。北斉様式の仏像は、北魏後期様式以来の分厚い衣を捨て、薄い衣の下に柔らかな肉体を感じさせ、菩薩像も装飾性を排除し、天衣を両肩からまっすぐ体側に沿って垂下させて、その豊かな体軀を露わにています。これはインドの様式に由来する特色で、このような様式が中国へ伝来した経路については様々な説があります。
山東省では遅くても東魏の後半、540年代には、このような様式に基づく像が現れたことが確かめられ
るという。

9 菩薩立像 石灰岩 東魏時代(534-550) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
単純な曲面で構成された体軀も、複雑な着衣や装飾品に隠されることなく、溌剌とした印象を醸し出している。下半身に着けた裳に刻まれた縦向きの平行な衣文が、少し突き出た腹部の柔らかさを伝えているのも、像の清廉な印象を強めており、裳裾に刻まれた品字形衣文も厳格な対称性を失っていないということで、ここにはインドの様式という言葉はない。  10 菩薩立像 石灰岩 北魏-東魏時代(6世紀前半) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
上半身には中央に涙形の飾りのある板状胸飾りを付けるのみで裸とし、下半身に裳を着け、これを結ぶ帯の緒は両脚に沿って膝下まで垂れている。裳の上端中央にはクシャクシャとした折り返しが見える。天衣は両肩から背面の腰上までを覆い、前面では膝辺りでX字状に交差してから両手前膊に懸かって、外側で垂下している。右手には下と左右に飾りの付いた環状持物を持って、蓮華上に立っているという。上半身は何も着けていないとはいえ、分厚い着衣を着ているような印象を受ける像である。 11 如来三尊立像 石灰岩 北魏時代・正光6年(525) 1918年、山東省清州市収集 山東省博物館蔵
山東地域の北魏仏を代表する違例。線条的で細緻な表現には、石彫における伝統的な技の冴えがうかがわれよう。この像が発見された清州市とその一帯は、隋時代(581~618)頃まで、山東における造寺、造仏の一大拠点であった。地理的に見て、古代の朝鮮半島や日本とも、何らかの交流があった可能性もあろうという。時代ごとに、この重そうな衣裳に嫌気がさし、段々と薄着になっていくようでもあるなあ。 
このように北魏後半の中国式服制になって以来分厚い着衣が鰭状に左右に広がる、いわゆる北魏様式が、東魏時代には次第に簡素になっていった。
北斉時代は造像の風格が突然変化したような印象を与える。髻が低く平らになり、両目は僅かに閉じ、従来扁平であった胸部がやや突起し、腰は低く、下腹が出っ張り、合わせた両足は長く、ぴったりとして透けた着衣によって、優美な体形を引き立てている。  ・・略・・  菩薩の着衣は簡素であるが、しかし装飾品は煩雑かつ華美である。「山東造像の風格」はこの時期において既に成熟しており、このような透けた薄着の造像風格は一体どこから伝わったのかは学者の論争の的となっている。南方からという見方や、中央アジアからという見方、または透けた薄着の発祥地である古代インドから伝わったという見方など、様々であるが、いまだ確かなことは分からない
という。

統一新羅の造像様式の源を山東省の北斉時代の造像様式に求めてきた。同じ物はなかったが、身体の線が出る着衣や、装飾的な着衣というのはこのあたりの影響があるのではないだろうか。
それにしても、統一新羅でもインドから直接造像様式が将来された可能性がとりざたされ、山東省の北斉時代でも同じような説があることが興味深い。

掘仏寺址の四面石仏についてはこちら
慶州博物館野外展示の石仏についてはこちら

※参考文献
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)
「中国山東省の仏像展図録」(2007年 MIHO MUSEUM)

2008/06/16

新羅仏の透けた着衣はやっぱり唐の影響?


掘仏寺址の四面石仏の南面二立像や、塔谷(タップゴル 탑골)磨崖彫刻群の中で特異な丸彫仏立像の着衣もさることながら、着衣を通して身体の線がよくわかる。そして腰が極端に細いというのは新羅仏としては不思議な気がした。インド的な作風のように思う。しかし、朝鮮半島も日本も、仏像の様式は中国から将来したはず。  
そこで、中国の8世紀中頃までのものについて調べてみた。その根拠は以下の通りです。

『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、統一新羅(668-935)は高句麗と百済の文化を吸収すると同時に、唐(618-907)の文化を全面的に受容し、三国時代とはまったく異なる美術様式をみせるようになった。統一後の679年、慶州に四天王寺が建立され、感恩寺、望徳寺、甘山寺と続いて建立された。しかし、三国時代のように大規模ではなく、双塔をもつ独特の伽藍配置が登場することになる。8世紀中葉になると、独特の構造と優雅な文様と音色で朝鮮鐘と呼ばれる梵鐘、仏国寺三層石塔(釈迦塔)のような新羅の典型的な石塔、十二支像のレリーフをもつ護石を配した陵墓制度、禅僧の舎利塔である浮屠など全ジャンルで独自性が発揮されるようになる。この時期に確立された美術は高麗、朝鮮王朝となって持続され、韓国美術の母体となったといえよう。
こうした環境のなかで、降魔触地印釈迦如来成道像と如来形智拳印毘廬舎那像が大きく流行し始め、今日まで続いている。この2種の如来像が持続して造られたのは、東アジアでは韓国だけである。こうした事実は、8世紀中葉になると新羅は唐の影響から脱皮し、独自の道を歩み始めたことを意味する
という。

8世紀中葉までの仏像は、

1 廬舎那仏右脇侍菩薩 洛陽龍門石窟奉先洞 上元2年(675)
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、腰が極端にくびれている上に下半身が細く弱く、ややバランスを失しているという。体の線が着衣を通してわかり、しかもくびれのある体型で、左横の阿難像のずんぐりした体型とは全然違う。だから同時代にいろんな作風があったのだ。
ともあれ、新羅の細腰仏像によく似た仏像が7世紀後半に造立されていたことがわかった。2 観音菩薩立像 石造 唐・神龍2年(706) 243.8㎝ アメリカ、ペンシルヴェニア大学付属博物館蔵 
よく、わが奈良時代の傑作、奈良、薬師寺東院の『聖観音立像』と比較される、ほぼ等身の直立した雄偉な作品であるが、そこには一種のマンネリズムともいうべき気分がうかがえるという。確かに両腕から垂れ下がる天衣や、脚の間のどうでもいいような衣文線など形骸化が見られるが、このような体型の仏像伝わったのだろう。3 立仏像 洛陽市龍門石窟奉先寺洞 開元10年(722)
菩薩像より50年ほど後のものだが、右より2つめの像の着衣の裾がV字形になっている。この像は他の像と異なって通肩である。この像の様式が新羅に将来されたかどうかはわからないが、裾がV字形になっているものが中国にもあったのだ。
また、『慶州で2000年を歩く』は、9世紀に入り新羅中央の力が弱まると、慶州の芸術活動の勢いも落ちてきた。それにたいして、地方では新たな勢力が伸び、かえって芸術活動が盛んになった。しかし石仏は貧弱になり、台座の身体のバランスが合わなくなる一方で、光背や台座などはかえって繊細になってしまった。慶州ではこの時期の石仏は見られないようだという。

『世界美術大全集10高句麗・百済・新羅・高麗』によると、8世紀前半の代表的作品としては、甘山寺の石仏2体があげられる。719年に貴族、金志誠の発願によって造られた石造阿弥陀如来立像と弥勒菩薩立像で、光背に長文の銘文が刻まれており、資料的価値も高いという。では、統一新羅の仏像はどうか。

4 阿弥陀如来立像 慶州市甘山寺伝来 統一新羅(720年頃) ソウル国立中央博物館蔵
阿弥陀如来像は通印で、身体に法衣が密着していることから身体の線が目立ち、並行するU字形衣褶によって、身体の上部と両脚の量感を強調している。この様式はインドのグプタ様式を反映したもので、唐に及ぼしたグプタ様式の深い影響を推測させるという。  5 弥勒菩薩立像 慶州市甘山寺伝来 統一新羅(720年頃) ソウル国立中央博物館蔵 
弥勒菩薩像は三曲姿勢をとり、華麗な装飾と裙衣をはいた形式など、独尊像としては中国でも見られないほどインド的な要素が強い。8世紀に入ると新羅ではしだいに唐(盛唐)様式が受容されたが、インドからの直接的な影響も完全には否定できないという。四面石仏南面二立像が4・5とそっくりとは言い難いが、このような将来されたばかりの様式がこなれた頃の作品かも知れない。 
果たしてインドから直接造像様式が将来されたのだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」(1997年 小学館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館)
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)

2008/06/13

掘仏寺(クルプルサ)の四面石仏、南面の二立像は

掘仏寺址の四面石仏は、思っていたよりもずっと大きいものだった。柵があって近づけないが南面の二立像も私より背が高いかも。
周囲に礎石があるので、かつては建物の中に置かれていたか、少なくとも屋根が架かっていたようだ。 四面といっても自然の大岩のため、各面が均一ではない。南面は三尊像が浮彫されていたのが、一部が崩れて一体がなくなったとも思えない。『慶州で2000年を歩く』で武井氏は南は釈迦三尊仏と考えられているが、よくわかっていないという。これは四面石仏が四方仏とすると釈迦三尊像と考えざるをえないということだろう。
右は左手に壺を持っているので観音菩薩と思われる。この像は、国立慶州博物館野外展示の観音菩薩立像と似た着衣だが、慶州博像ほどには装飾的ではない。そしてどこが違うかというと、慶州博像は腰や膝に垂れる天衣が曲線なのに対し、この菩薩は膝の天衣がV字形になっていることである。
左側も菩薩かと思ったが、通肩の如来のようだ。衣文がかなり形骸化しているが、大衣の裾がV字形となっている。左右対称に手を挙げているので、もともと二立像として造られたものだろう。 V字形の裾は塔谷(タップゴル 탑골)磨崖彫刻群の中で特異な丸彫仏立像の着衣によく似ている。この像は肩の後ろから頭部と一体となった頭光が彫り出されている。
その着衣は、体の動き同様にぎこちないが、掘仏寺四面石仏南面の二立像と同じ頃に制作されたのではないだろうか。 これらの像よりも、国立慶州博物館野外展示の頭部のない仏立像の着衣の方がこなれた作風に見える。
どちらが時代が古いのだろうか。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)

2008/06/11

掘仏寺(クルプルサ)の四面石仏、西側の二菩薩は


国立慶州博物館の野外展示で四方仏を見た後で堀仏寺の四面石仏を見ると、これが四方仏ではないことがはっきりした。
そうなると、西側の三尊像が阿弥陀三尊と言えなくなった。それにずんぐりした中尊と、三曲する細身の身体の両脇侍は、当初の組み合わせではないように思う。 左脇侍は肩幅が狭く細身のように見えるが、角度を変えて写した写真を見ると、体の厚みだけがかなりある。三曲法という様式が唐から将来したが、まだこなれていないのか、形骸化してしまったのか、両足をそろえて不自然な感じだ。同じく典型的な三曲法の白鳳時代を代表する薬師寺の日光・月光像とかなり異なった作風となっている。後ろ側も衣文など表されているが前面と比べると簡略化されている。
そして頭部が大きいと感じるのは首が短いのとべったりした顔の作り、そして三面頭飾が縦に長いこからだろう。左手に持っているものが何かわからないが、宝冠には立像の化仏がついているので、観音像だろう。 頭部を失った右脇侍も三曲法だが、左右の足をバランスを変えて表している点で、左脇侍よりも唐の新様式を消化した作風となっている。こちらも体の幅に比べて厚みがあるが、そう不自然ではない。複雑な衣裳だが、薄手の衣がよく表現されている。阿弥陀三尊の右脇侍は勢至菩薩で、冠に宝瓶があることで見分けられるのだが、頭部がない。右手に持っているものが壺なら薬王菩薩かも知れない。

左右の菩薩の衣裳が違いすぎるし、様式も異なるので、当初の組み合わせではないと思う。後世に壊れたりして別のところから持ってこられたものだろう。 この二菩薩に似ているのではないかと思われるのが、国立慶州博物館の野外展示石仏群に1体だけあった菩薩立像で、左手に壺を持っているので観音菩薩と特定されている。 
統一新羅時代(8世紀)のもので、胸飾りはそんなに派手ではないものの、両太ももあたりは紐を結んだものだろうか、非常に装飾的な菩薩だが、着衣は薄く身に沿い、天衣も翻ることなく、腹部と膝に広がり、それが背中に回ったのか、両肩から腕へと垂れて、膝のところにも延びている。どこが端なのかわからない。
頭部は左脇侍に似ていて、足の開き方は右脇侍に似ているようにも思える。  慶州博物館の狼山にあった観音像は、二菩薩に似てはいるものの、全体的には肩幅があって上半身に塊量感がある。どちらが制作年代が古いのか、もっと勉強しなくては!