2007/05/25

中国・山東省の仏像展で新発見の截金は



仏像の様式だけでなく、その装飾文様、特に截金(きりかね)に興味のあることはアートボックストンボ玉とコアガラス田上恵美子展でもふれたが、「山東省の仏像展」では、菩薩が装飾的な衣服や瓔珞(アクセサリー)をつけてはいても、文様というものがあまりなかった。それで「あ、亀甲繋文がある。しかも亀甲の中に亀が描かれていて、その亀の甲羅にも亀甲が幾つか表されている」とじっくり凝視したのが4の菩薩像のまとう衣だった。

4 菩薩像残欠 北斉時代(550-577年) 漢白玉・金箔 青州市博物館蔵
同展図録の解説は、正面中央の飾り帯の環状飾りより下には截金により二重の亀甲文の中に亀を描いており、裳裾にも縦長の亀甲文の中に3枚の葉をもった植物文を上下に重ねた文様などが、やはり截金によって表されている。 ・略・
また、六角形の亀甲を幅をもたせた帯のように截った金箔で表した例が、韓国の武寧王妃の木製頭枕に見られ、衣文の界線に截金を使う例が、わが国の法隆寺金堂の四天王像に見られること、また、六角形の中に亀を表した文様が正倉院中倉の小屏風装小裂などに見られることは注目したい
という。

薄暗い照明であることが多い博物館・美術館であるが、この像に限っては、煌々と照らされていて、それだからこそ亀甲繋ぎ文に気がついたのだ。しかし、老眼の私の目には、この文様が紫色にしか見えなかった。
この菩薩像を見終わって、先に進むとパネルに「新発見の截金」としてこの像の拡大写真があったので気がついたのだった。
戻ってじっくり見ても、どうしても金色に光るものを見つけることができなかった。多少暗いと、いろんな方向から視点を移して見ているうちに、チラチラと光るものに気づくこともあるのだが、今回はあまりにも照明が強すぎて、返って確認できなかった。
人は足から衰えるというが、若い頃は目がよいのだけが自慢だった私は、視力から衰えているようだ。
また、パネルにはもう1点截金が発見された像の写真もあった。

5 菩薩立像 北斉時代(6世紀後半) 石灰石・彩色・金箔 1987年青州市駝山路南龍興寺遺跡より発見  青州市博物館蔵
同展図録は、胸飾りや腕釧(わんせん)は金箔で彩られ、また、真ん中に合わせ目を見せる赤い裳には緑と赤の区画に白い丸文を描いた文様が縦に連なっているが、この区画の境界線には截金が使われているという。

これもじっくりと見たはずなのに、全く気づかなかった。前の部屋に戻って正面から見てもわからなかった。この像は4の像ほどには明るく照らされていないのだが。それで腕釧の金箔が光る左手寄りに少し移動してみて、ようやく左脇の縦線に截金が施されていることがわかった。今となっては、これらの像を展示した方々の視力がうらやましい。4の解説にもあったように、 法隆寺金堂の四天王像にも截金が使われている。

6 法隆寺金堂の四天王像うち多聞天像 7世紀中頃
『日本の美術373 截金と彩色』は、玉虫厨子のもっとも簡単な截箔の使用から技法的にやや進んだ截金とみられるのが法隆寺金堂の内陣四方に安置された四天王像であろう。

その他、着衣の衣文や縁どりに細い截金が多用され、また頭光の円圏に金箔が曲線で置かれているのも進んだ技法といえよう。
四天王像は7世紀中頃の制作とみられ、この頃にはすでに金箔を薄く打ち延ばして金箔を作る工人や金箔を截り、透し、押すなど截箔、裁文、截金を自由に使用することのできる工人がいたとみてよいであろう
という。

どこまでが裁文でどこからが截金なのかよくわからないが、5の菩薩立像の截金と同じように、直線で截金が施されていることが、截金という技法が始まったり、伝わって間がない時期のものという、各地の截金の原点を見るようである。 また、亀甲繋文というと思い浮かぶのが、パルミラの墓地で見た壁画である。10年前に撮った写真はピンぼけだったので、『世界美術大全集東洋編16 西アジア』より。

7 シリア、パルミラ3兄弟の墓内部壁画 パルミラ王国時代(2世紀後半)
同書は、壁面には漆喰を塗り、その上にさまざまな図柄を描いている。天井部分はわが国の美術にも見られる亀甲繋文と七宝繋文で充填したという。

私のええ加減な知識によると、この「亀甲繋文」も「七宝繋文」も東アジア的な文様であるが、中国よりも西アジアの方が古くからあるようだ。
関連項目

金箔入りガラスの最古は鋳造ガラスの碗
截金の起源は中国ではなかった

※参考文献
「中国・山東省の仏像展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館