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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/01/20

三十三間堂1 風神雷神の像


京都国立博物館に平成知新館オープン記念展を見に行った日、同館の南向かいにある三十三間堂にも足を伸ばした。
同寺には40年近く前に一度行ったきりだった。その時は薄暗い中に千手観音が並んでいたという記憶しかなかったが、千一体千手観音像がずらずらと並ぶ前に二十八部衆が置かれていて、風神雷神像もあるので、もう一度行ってじっくりと見てみたいと思っていた。良い機会となった。

三十三間堂について『三十三間堂の佛たち』は、後白河上皇により、長寛2年(1164)に創建された千手観音を本尊とする千体観音堂です。
後白河上皇は、応保元年(1161)、この地一帯に設けた法住寺殿を院御所とし、その郭内にこの蓮華王院三十三間堂を創建したのです。
しかし、、当初のお堂は建長元年(1249)に焼失し、やがて文永3年(1266)にその本堂が旧規模で再建されました。
お堂は東向きで、南北が118m(外陣を含み三十五間、390尺)という非常に横長な建物ですという。
入場券を買って境内に入り、まずは外観を見ようと東側へ。一周してから堂内を拝観するつもりだったが、建物のあまりの長さにこの角で写真を写すのにとどめ、風神雷神を見た後に廻ることにした。
同書は、建築様式は和様、単層入母屋造りの本瓦葺きで、東側は正面中央の七間だけに向拝をつけ、そのほかはすべて各柱間に扉をたて、西と南の側面に計八間の出入口の板扉があるほかは、西面の各間はいずれも連子窓とし、四周に広縁をめぐらした簡潔で明快な仏堂です。しかし、単層とはいえ棟の高さも約15mあり、それが目前から百mの彼方に向かって、みごとなパースペクティプ(透視的遠近法)を展開しているのは壮観ですという。
ここからは向拝の出っ張りまで、つまり三十三間堂の半分が見えているだけなのに、それでもこの長さ。
屋根の反りも少なく、すっきりとした建物だが、118mを見渡せる場所が境内にあるのだろうか。

当時は訪れる人も少なかったが、今では団体客がどんどん押し寄せてにぎわいがある。
堂内は時計回りの一方通行、「撮影禁止。カメラを持っていると没収することがありますので、バッグの中に入れて見学して下さい」というような張り紙があった。
北側の廊下を突き当たり、長々と南下する。

堂内は、垂木と支輪板をみせる化粧屋根裏で、その下に簡素で堅固な二重虹梁が架かり、爽快で隔てない伸びやかな空間をつくっていますという。
この画像では化粧屋根裏はよく見えるが、2つの二重虹梁がどちらも重なって写っているのが残念。虹梁は曲線を描く虹のような梁という意味で、要するに、弓のような梁が2段にわたって、内陣を横断している。三十三間なので、二重虹梁は34あるのかな。
虹梁の分かり易い画像は法隆寺回廊のこちら
我が書庫には平面図のある本がなかった。社寺建築逍遥の蓮華王院本堂でやっと見付けた。
同書は、千体観音像はこの外陣に向かって開かれた内陣の、南北十五間分に各五百体ずつ、前後十列で階段状に安置され、中央三間分には、中尊が安置されています。さらに林立する観音像の前列には、風神・雷神を含むいわゆる観音二十八部衆像三十体が並んでいます。観音二十八部衆とは千手観音に随従する諸天・善神の群像で、いずれもほぼ等身大の大きさで、鎌倉時代を代表する奈良仏師、康慶・運慶・湛慶と続く、いわゆる慶派が主幹し、さらには「院派・円派」と呼ばれる在京の仏師集団など、その造像には近畿一円の者たちが総動員されたことがわかりますという。
昔来た時の二十八部衆の記憶がない。それほど暗かったのだろうか。
今回は各扉は開かれ、障子面が大きいので、記憶とは違いお寺にしては明るかった。おそらく扉は当時も開かれていたのだろうが、雨か曇りで暗かったのだろう。
同書は、千手観音像はいずれも等身大(167-7㎝)の立像で、寄木造りの漆箔です。その数1001体のうち、124体が創建時のもの、建長の火災時に救出された像です。復興像の脚枘には作者の記名のあるものがあり(504体)、中尊を担当した「湛慶」の9体をはじめ、康円・行快などの慶派仏師、また隆円・昌円・栄円・勢円などの円派仏師、さらに院継・院遍・院承・院恵などの院派仏師と、当時の奈良仏師と京都仏師とが腕を競ったことがわかります。
長寛・創建時の像はいかにも柔和な藤原彫刻の作風を示し、これにならった鎌倉復興像も、時代の特色と作者の個性的な違いを示していますという。
言われているように、千手観音の顔はそれぞれに異なり、創建時に造られた像もあれば、後世に補填された像もあった。

さて、風神雷神は、二十八部衆の両端の那羅延堅固像と密遮金剛の仁王の外側に置かれていた。
二十八部衆は床の台座の上に立っているが、風神雷神は来迎雲のように尾のある沸き立つ雲の上に、仁王よりも迫力のある形相で立っている。他の像よりも高い位置にいるので目立つ。

風神像 鎌倉時代宝治年間(1247-48) 123㎝
同書は、サンスクリット語のヴァーユで、風天と訳される。『リグ・ヴェーダ』にでる神で、数頭立ての馬車で天空を駆け、敵を駆逐して名声や長寿、財宝や子孫を授けるとされ、天界の神酒・ソーマを好むことからソーマパーとも呼ばれた。雷神(水天)とともに「護法十二天」の一尊でもある。
自在に吹きわたる風の力を神格化したもので、その尊容は全く日本化されており、二十八部衆には、後になって付加されたものという。後世の風・雷神のイメージを決定づけた傑作という。
南の端に置かれていた。ここまで来てやっと風神像を見ることができたので、雷神像と比べてみようと思っても、110m戻らなくてはならない。
風の袋は左手でその端をしっかりと掴んでいるので外にもれることはないだろうが、右手はやや上を持っているので、端からは風を出しているのだろうか。いや、敵を見付けてこれから袋の口を開こうとしているようにも見える。

雷神像 宝治年間(1247-48) 105㎝
同書は、その起源はインド最古の聖典という『リグ・ヴェーダ』に水神として登場するヴァルナだといわれる。ヴァルナは、のちに雨や水を司る龍神と混同され、さらに下って天候を司る雷神へと変化したという。後6世紀の制作という敦煌莫高窟の壁画に風神と共に描かれたのが最古というが、古代人の水に対する恩恵と畏怖心がこのような神格を生み出したのだろう。
『千手陀羅尼経』にでる「水雷火電」の語句から日本中世の俗信的空想によって創作した尊容という。巻雲に乗り、天鼓を打つ姿態は怒りととも大笑ともみえるという。
北の端にあり、内陣の角を曲がるときに、すでに見えてくる。
正面に回ると、両手に持つ撥で太鼓を叩くよりも、こちらに向かって殴りかかるような迫力が、その顔にはある。
そして見開く両眼は水晶を嵌めこんだ「玉眼」であるという。
鎌倉時代になると、玉眼の像がみられるようになる。千手観音は玉眼ではないが、二十八部衆はみな玉眼だった。
それよりも、怒髪には截金の線があるのでは。
この顔って興福寺の龍燈鬼に似てない?特にギザギザの眉が。

風神雷神は敦煌莫高窟第285窟の天井にも描かれているが、インドの神話にも登場するらしい。これについては後日
また、後世に俵屋宗達などが屏風に描いている。これについても後日

                 →三十三間堂 堂内

関連項目
三十三間堂4 風神雷神その後
三十三間堂3 風神雷神の起源
三十三間堂2 雷神のギザギザ眉の起源

※参考サイト
日本建築史研究所松谷洋氏の社寺建築逍遥蓮華王院本堂

※参考文献
「三十三間堂の佛たち」 2011年 妙法院門跡 三十三間堂