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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/03/02

楯築弥生墳丘墓2 木棺木槨墓に大量の朱 

 
『シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓』は、墓壙の長軸方向に沿った形で円礫が集中している場所があった。円礫の厚さは60㎝から1mにも達した。調査ではこれを円礫堆とよんだ。
この円礫堆は、もともとは主体部が埋め戻された後、その真上に円礫が高く盛られたもので、木棺等の腐朽にともなって次第に中に落ち込んで埋められたような状態となったものであった
という。
1・2・5の立石は墓室を囲んでいるが、3・4は囲む石ではない。それとも、築造当時は1・2・5からなる円弧、3・4からなる円弧上にもっと石が立てられて、二重の列柱になっていたのかも。 墓壙はやや歪んだ楕円形をしており、主軸を北方向からやや西に振っている。その規模は、南北約9m、東西5.5-6.25m、深さは約2.1mもあり、弥生墳丘墓としては破格の大きさであるという。
図からは古墳時代以前は南北方向ではないと解釈していたが、ほぼ南北方向とみられているようだ。 同書は、朱は棺床全面に敷かれていたのだ。朱の総重量は、計測によると32㎏以上に達するといわれている。朱は弥生時代にも埋葬施設で一般的に用いられるものであるが、少量を頭部や胸部などに薄くばら撒き、せいぜい赤い色が見えるという程度であることを考えると、楯築弥生墳丘墓で用いられている朱は途方もなく膨大な量であったことがわかる。
楯築弥生墳丘墓の朱はかなりよく精製された良質の水銀朱だけが使用されており、朱の産地は現在までは特定できていない。しかし、これだけの膨大な量の、しかも良質な朱を供給できる産地については、中国や朝鮮などからの搬入の可能性も含めて考える必要があるだろう
という。
精製された水銀朱が当時の日本になかったとしたら、大陸との接触で入手したのだろう。
楯築弥生墳丘墓は弥生時代後期ということだが、同書には年代が一切明記されていない。ウィキペディアでは2世紀後半-3世紀前半としている。
当時、吉備には破格の大きさの墓を築くことができ、しかも海外から大量の水銀朱を取り寄せられるような、強大な力を持った統治者がいたのだろう。
埋葬にともなって朱が用いられるという理由については、いろいろな解釈がなされている。たとえば、朱は血の色に通じ、生命の復活を願うためとする考えや、より実用的に水銀の殺菌力を利用して遺体の防腐作用を期待したというもの、あるいは神仙思想にもとづくという考え方などがある。
古代の人びとが朱の赤色に対して呪術的な特別の意味合いを感じていたことは確かであり、楯築弥生墳丘墓に葬られた首長の葬送儀礼に際して、あえて大量に使用したということに重要な意味合いが含まれている
という。
その朱について、ここでも神仙思想が出てきた。呪術的な意味合いということでよいのでは。  棺底に敷かれた朱の存在を手がかりにして、木棺部分については比較的容易に検出することができた。それによると、木棺は箱形と考えられ、内法の長さ197㎝、幅が南側で72㎝、北側で59㎝であった。
外側に残したいくつかの土層断面に何とも不可解な変化がみられたのである。そこには薄い粘土の層が複雑に向きを変えて交じり合い、重なり合っていた。木棺の外側にそれを包み込むような木槨が存在していたということであった。
残された痕跡をたどっていくと、木槨の平面形はやや歪んだ長方形となり、内法の長さは、中央付近で約3.53m、幅は約1.45mとなる。高さは、約88㎝と推定された
という。
こういった構造は積石木槨墳といってよいのではないのだろうか。規模は小さいが、慶州の天馬塚(6世紀初頭)の構造によく似ている。異なる点は、平地ではなく丘陵に造られてること、地表面ではなく墓壙をかなり深く掘り込んでいること、積石の上には大量に土を被せてはいないこと、である。 楯築遺跡だけでなく、有年原・田中遺跡でも木棺に埋葬されていた。弥生時代後期には板が使用されていたようだ。古墳時代初期のホケノ山古墳でも木棺だった。
ところが、桜井茶臼山古墳と下池山古墳はコウヤマキ、黒塚古墳はクワと、大木を刳り貫いた割竹型木棺になった。板にする技術がないので木を刳り貫いたのかと思っていたが、逆だった。
大量の朱や青銅鏡だけでなく、大木をできるだけ元の形で使うのが新たな権力を誇る手段となったのだろうか。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(福本明 2007年 新泉社)