お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/06/30

新羅で最初の積石木槨墳は

 
慶州の南東部で4世紀前半の石槨木棺墓が築かれたが、それに続く古墳はどんなものだろうか。
『韓国古代遺跡1』は、109号墳は、1934年に発掘された。味鄒王陵の北75mに位置する。墳丘は、径10.4~13m、高さ1.80mの低い円墳であった(「その後封土も跡方もなくなった」という。位置的には現在の古墳公園内に相当する)。墳丘内に4個の積石木槨があり、第3槨と第4槨(副葬品室・副槨)が直列して築かれ、その上に切り合って第1槨、それに直交して第2槨が構築されていた。切り合い関係から、第1・2槨よりも第3・4槨が先行する。
墓壙は封土の上部からでなく、地山を穿っている。第3槨は長さ3.5m、幅1.2m内外に推定されている。床面には10㎝ほどの石を敷きつめ、さらにその下部には褐色粘土と砂利を厚さ30㎝にわたって積んでいる。第3槨と第4槨との間には界壁がつくられており、上面は厚さ13㎝ほどの粘土でおおっているが、地山を掘削したままである。第4槨は、長さ3.5m、幅2.1mで、第3槨に比べて小さい。槨床の砂利層もなく、第3槨より簡略化している。墳丘の周囲に、幅1mの外護(囲)列石がめぐらされており、径20mに復元しうるという。遺物は第3槨では東側に土器群、西側に遺骸が置かれ、両耳に位置するところから金環が装着された状態で出土した。東枕で、右に鉄刀、左に有棘利器が配され、足部には、鉄刀・鉄鏃・鉄矛などの武器を副葬している。以上のように、構造的にはのちの金冠塚などと大差なく、積石木槨墳としての要素を備えている
という。
どうも皇南洞109号墳が積石木槨墳の最初期のものらしい。しかし、その周りにある土を盛り上げた積石木槨墳とちがって、朝陽洞古墳や九政洞古墳のように、元の地形を利用していたようだ。 もう跡形すらないらしいが、鶏林路に沿った塀の近くにあったらしい。残っていてもこんな程度だったかも。見えているのは110号墳かと思います。
位置関係についてはこちら 第3・4槨は、伊藤秋男の編年では第1期(4世紀後半~5世紀前半)に位置づけられている。
第4槨から出土した鐙は、北燕の馮素弗墓(415没、遼寧省北票)出土の輪鐙、遼寧省朝陽袁台子墓、河南省安陽孝民屯墓出土との比較から馮素弗墓型式の鐙は4世紀後半には成立していたものと推定されている
という。
ということは、109号墳は4世紀後半以降に築かれたらしい。 では、積石木槨墳の起源についてどのようにとらえうるであろうか。
従来、支石墓・土壙墓・楽浪木槨墓が融合したものとの説がみられたが、いずれも時間的隔たりがあまりにも大きすぎたといえよう
という。
確かに木槨墓は後1世紀には朝陽洞に出現しているが、木槨の上から人頭大の石を積むというのは皇南洞109号墳が最初としたら、その起源が気になるところである。慶州の積石木槨墳地帯の周囲は、川がたくさんあるというよりも、川で囲まれているといってもいいくらいなので、石はいくらでもあったかも。
墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえる。小規模な積石木槨墳は盗掘されやすいが、5世紀中葉ごろに出現した皇南大塚南墳のような巨大墳のばあい、その積石の量は膨大であるという。
5世紀中葉には巨大墳が築造されているので、109号墳は4世紀後半~5世紀前半に築かれた小規模な積石木槨墳らしい。『韓国の古代遺跡1』は4世紀末とみているようだ(同書「新羅古墳の編年-伊藤秋男に追補」より)。
その頃に同じような金環をつけていたどこか外来の人達が、積石という新しい技術をもたらしたのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)

2009/06/26

慶州の積石木槨墳以前は

 
慶州で中央平野部に築かれた巨大な積石木槨墳よりも早い時代に築かれた墳墓には、朝陽洞遺跡や九政洞古墳がある。それらは積石木槨墳群のずっと南東の少し小高い丘陵部にあったらしい。
近くに点在する九政洞方形墳や孝昭王陵・聖徳王陵は積石木槨墳よりも後の統一新羅期のものである。九政洞古墳の航空写真はこちら 『韓国国立中央博物館図録』は、慶州朝陽洞の低い丘陵上に立地する遺跡で、青銅器時代住居址とともに初期鉄器時代・原三国時代・新羅時代にかけて各種の墳墓が調査された。
これら朝陽洞の古墳群は、文献上の三韓時代にあたる遺跡で、初期鉄器時代の伝統を受け継いで新羅の積石木槨墳に移行する過渡期的な性格を帯び、この古墳で出土する中国前漢鏡はも大同江流域の流移民が慶州地方に南下し定着した時期を示す重要な根拠になっている
という。
『韓国古代遺跡1』は、朝陽洞では、石槨墓8・木棺墓26・木槨墓13・甕棺墓20基が発掘されたことになる。このうち木棺・木槨墓は、Ⅰ型墓(木棺墓)・Ⅱ型墓(木棺墓)・Ⅲ型墓(木槨墓)に分類されている。Ⅱ型の38号木棺墓は、伴出した前漢鏡から紀元1世紀前半に位置づけられ、「瓦質土器」といわれる軟質の土器が出土した。瓦質土器としては最古の形式を示すという。 『国立慶州博物館図録』は、朝陽洞遺跡の年代推定可能な遺物は、38号木棺墓出土の日光鏡・昭明鏡・四乳鏡など4枚の前漢時代の銅鏡である。これらは漢墓の発掘結果から、すべて紀元前1世紀後半年代の遺物であることが明らかにされており、したがって38号木棺墓の年代も紀元前後の時期であることが明らかにされたという。
文字が漢字と思えない日光鏡だが、これが仿製鏡ではなく前漢のものであることは確からしい。 『韓国の古代遺跡1』は、Ⅱ-5号墓(60号墓)は木槨で、棺外から黒色磨研長頸壺2・無文土器甕1・銅製馬鐸2ほか。棺内から多鈕鏡1・青銅製把頭付き鉄剣1・漆塗木製丸棒が出土しているという。
『国立慶州博物館図録』は、木槨墓は木棺墓よりも規模の大きな長方形土壙内に木槨を設置して、その中に木棺が安置されているものであるという。
38号墓と同じくⅡ型であるが、年代が不明。もうここで木槨木棺墓が出現している。 『韓国国立中央博物館図録』は、慶州九政洞にある新羅初期の古墳で、円形の自然丘陵の頂上部に埋葬遺構を設けて、丘陵自体を墳丘化した特異な構造のものである。埋葬遺構は、地面に長方形の土壙を掘り石槨を設けたのち、その内部に木棺と副葬品を設置した形式である。
この古墳は、2基の埋葬遺構が約1mの間隔をおき南北に合葬する夫婦塚と推定されている。
北側の遺構は、長さが8m、幅1.3mで、ここからは鉄槍や環頭大刀・鉄斧などとともに短甲が出土し、夫の墳墓と推定された。なお、ここでは幾つもの瓦質土器と粗質な硬質土器がいっしょに出土して、この墳墓が、瓦質土器が本格的に硬質土器へと移行する時期である3世紀末に営造されたものであることが証明された。
南側の遺構は、長さ6mぐらいで、営造方法は北側のものと同一である。土壙底面には、長さ80㎝ぐらいの長い鉄槍数十本が敷かれていて、特異な埋葬様式を示している。
九政洞古墳は、出土遺物と立地条件から推して支配階級の墳墓であることは間違いなく、新羅の典型的な積石木槨墳よりも一時期先行する形式の古墳として注目されている
という。
『韓国古代遺跡1』は、九政洞方形墳の北東の標高100mの丘陵に近接して3基の古墳があり、2号墓(左)は木棺墓で、棺の下には鉄矛多数が棺に直交して並べられ、小口に硬質の新羅土器が副葬されていた。3号墓(右)は2号墓に平行して築かれた長さ8m、幅1.5mの長大な木棺墓である。土器とともに短甲が副葬されていた。最末期の瓦質土器と古式陶質土器が共存しており、瓦質土器から陶質土器に移行する4世紀前半ごろのものと推定されている。封土の有無については定かではないという。
時代が下がって木槨木棺墓ではなく石槨木棺墓が現れた。  これが3号墓から出土した短甲である。『韓国の古代遺跡1』は、短甲は帯状の鉄板を革で綴じあわせた、長方板縦矧革綴(たてはぎかわとじ)短甲である。頸甲(あかべよろい)とよぶべき長方形の鉄板を横に綴じ合わせたものと組み合わさって出土した。長方板の縦矧革綴はおそらく新羅で独自に生みだされた型式であるものとみられる。その背景として前述の朝陽洞出土のような板状鉄製品の製作技術が不可欠であったという。
新羅では製鉄が盛んだったようだ。 それぞれの文献で年代に多少の違いがあるが、これらが巨大な積石木槨墳へと発展していくのだろうか。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「韓国中央国立博物館」(1986年 通川文化社) 
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)

2009/06/23

慶州太宗路にこんな積石木槨墳が

 
高速バスで慶州のバスターミナルに着いた我々は、タクシーで太宗路を通り、情報としてはわかっていたが、街中に大きな古墳がいくつもあるのに眼を奪われた。路東里・路西里古墳群を左側に、大陵苑(下図で皇南洞古墳群とされている)を右側に見て、もう終わりかと思ったら、また別の古墳があった。この付近の航空写真は、グーグルアースでみるとこちら 大陵苑と、八友亭ロータリーの間にある大きな古墳なのに、皇吾洞にも皇南洞にも含まれていないらしい。『韓国の古代遺跡1新羅篇』では34号墳とされていて、未調査の古墳らしい。
下図の南方には慶州東部史蹟地帯と呼ばれる古墳群もあるが、やはり未調査のものが多い。  34号墳は天馬塚のような形の整った円墳ではなく、かといって、双円墳としても形が整っていない。大陵苑の双円墳よりも小さいが、周辺の民家と比べると面積・高さがかなりのものである。 このような古墳は積石木槨墳と呼ばれている。
『韓国の古代遺跡1』は、積石木槨墳とは、木棺を築き、それを人頭大の礫石でおおい、さらに盛土した構造の墓である。4世紀のおそらく前半代に慶州の地で発生し、6世紀後半の終焉まで、約200年間新羅独自の墓制として発達した。墓制からみれば、古新羅時代は積石木槨墳の時代といえるという。
『韓国中央国立博物館』は、これらの古墳は、地下や地上に木槨を設け、その内部に木棺と副葬品を設置したのち、木槨の上部に石を積み、その上に封土を被せた特異な構造をなしていたという。
古新羅とは統一新羅以前の三韓時代の新羅のことである。
慶州ではどのようにして積石木槨墳が出現したのだろう。

積石木槨墳の構造は天馬塚を、
大陵苑については大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵から天馬塚大陵苑で皇南大塚から味鄒王陵へ
路東里・路西里については路東里古墳群には金鈴塚(クンリョンチョン 금령총)と飾履塚(シッリチォン 식리총)路西里古墳群は瑞鳳塚(ソボンチョン 서봉총)と金冠塚(クムクァンチョン 금관총)しかわからないをどうぞ。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「韓国中央国立博物館」(1986年 通川文化社) 
 

2009/06/19

翻波式衣文はどこから

 
では、鑑真和上と共に渡来した中国では同時期にどのうな翻波式衣文だったのだろう。残念ながら中唐期の仏像に良い例を見つけることができなかった。

如来坐像 唐時代・景龍4年(710) 石灰岩 最大幅44.5㎝奥行45㎝ 山西省出土芮城県風陵渡東章出土 芮城県博物館蔵
『中国国宝展図録』は、切れ長の目と引き締まった口元から作られる表情は、おごそかな雰囲気を漂わせる。衣の襞の処理などはややパターン化しているとはいえ、肌には張りを感じさせ、優れた造形感覚をうかがわせるという。
710年は中唐か盛唐か、『中国の仏教美術』は盛唐を712-762年としているが、景雲2年(711)銘阿弥陀仏坐像を盛唐に入れているので、この像も盛唐期のものと見て良いだろう。
この像の衣文は、解説で「パターン化している」という。翻波式衣文もあるのだが、パターン化というよりも、こなれていないようにも見える。開元年間(713-741)の仏像には翻波式衣文は見られず、どのように唐招提寺の仏像の翻波式衣文へと繋がるのか全くわからない。 ガンダーラの仏像に翻波式衣文が顕著だった記憶がある。

観音菩薩立像 4-5世紀 片岩 高108㎝幅48㎝奥行21㎝ ガンダーラ、サハリ・バハロール出土 ペシャワール博物館蔵
『ガンダーラ彫刻展図録』は、頭体のバランスが崩れ、肉体も抑揚を欠いたものとなり、衣文線も形式化の進んだ単調な表現となっているという。
確かに表情も姿も、ガンダーラ仏とは認め難い。本来の衣文が二重になり、しかもその二重の衣文と衣文の間に細い浅い翻波式衣文が見いだせる。 仏立像 1-2世紀 片岩 高170㎝幅56㎝奥行26㎝ ガンダーラ出土 ペシャワール博物館蔵
単独像として最も古いタイプとされている。両肩をおおう通肩に衣をつける。その襞は、深浅を巧みにおりまぜて自然な曲線を描き出した写実的な表現となっており、ガンダーラ仏におけるヘレニスティックな様式を示しているという。
いわゆるガンダーラ仏として様式化するまでのガンダーラの仏立像にも、すでに浅い翻波式衣文が衣文と衣文の間に現れている。  婦人像浮彫 2世紀末 パルミラ出土 シリア国立博物館蔵
『シリア国立博物館』は、神の像だけでなく、英雄や偉人の姿を彫像として永く世にとどめておこうとする西アジア古来の風習は、ローマ期にはいっそう顕著なように思われる。ヘレニズム期の死者の像の流行も、こうした風潮と深層では無関係とは思えないという。
パルミラに行くと地下墓や塔墓にこのような浮彫が縦横に整列している。それは1つ1つのミイラ室の蓋であるが、死者の姿を写実的に表したものではない。時代による様式の違いはあっても、どれも同じような個性のない顔である。その中でもこの浮彫は衣文を丁寧に彫り込んだ像で、翻波式衣文が様式的なものではなく、すっぽりと頭から被った布が自然に肩にそってできた皺のように表現されている。 墓碑:幼児を抱く女性と侍女 前370年頃 大理石製 高136.0㎝幅87.0㎝ ギリシアあるいはトロアス(トルコ)発見
『ルーヴル美術館展図録』は、女性は右肩上に見える袖付きのキトン、ピンで留めたペプロス、そしてその上に身体を包み込む毛織物の厚手のマント(ヒマティオン)の3種類の衣服を身に纏っているという。
右脚外側の衣文のカーブが、実際にこのようになるのか妙な気がするが、この大きく表された墓碑の主及び侍女の衣服には浅い翻波式衣文が表されている。デルフォイの御者 ブロンズ 高180㎝ ギリシア、デルフォイ出土 前478または474年 デルフォイ考古美術館蔵
御者の正装である袖付きの長衣を腰で留め、襷を掛け、首と腰を向かって左側に軽くひねっている。
様式的には、装飾的な頭髪の扱いや、写実的な描写よりも形式的な美しさの表現を優先させた上半身の衣文の作りに、奉納者の統治域でもある南イタリアの彫刻の様式特徴がみとめられる
という。
これがギリシアで翻波式衣文のある最も古い像の1つである。これにも翻波式衣文があった。 ギリシアクラシック期以前に翻波式衣文のある像を見つけることはできなかった。

※参考文献
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)
「世界美術双書006 中国の仏教美術」(久野美樹 1999年 東信堂)
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」(2002年 NHK)
「世界の博物館18 シリア国立博物館」(1979年 講談社)
「ルーヴル美術館展 古代ギリシア芸術・神々の遺産図録」(2006年 日本テレビ放送網株式会社)
「世界美術大全集4ギリシアクラシックとヘレニズム」(1995年 小学館)

2009/06/16

唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

 
仏像の時代づけも時と共に変わっていく。30年ほど前には、どっしりと塊量感があり、翻波式衣文があるのは平安前期の貞観彫刻の特色という風に習った。しかし、研究が進んで現在では、奈良末期に鑑真和上が連れてきた仏師達が中国の最新様式で造ったのが、それまで日本では見られなかった量感のある仏像で、それがやがて平安時代様式へと受け継がれていったのだ、というようになってきた。
今春、唐招提寺金堂平成大修理記念として奈良国立博物館で開催された『国宝鑑真和上展』には、数体の木彫仏が展観されていた。非常に暗くて見るのに苦労したが、それらの仏像には、翻波式衣文のないもの、かろうじて1本見つけたものなど、それぞれに相違があったので、翻波式衣文の出現の様子を、勝手に制作順として並べてみると、

1 全く翻波式衣文のないもの
衆宝王菩薩立像 木造 高173.2㎝ 奈良時代(8世紀)
『国宝鑑真和上展図録』は、旧講堂木彫群のうちの一体で、濃厚な唐風は天平勝宝5年(753)に来朝した鑑真一行のうちにいた中国の仏工と密接に関係するとみなされる。カヤの一木造で、いまは全体に素地があらわれている。丸い頭髪の上に思いきり高く髻(もとどり)を結い、頬から頸、肩にかけて力強い肉付けを見せながら真っすぐ立つ量感に溢れた姿は、自然さを基調とするそれまでの天平彫刻とはまったく異質である。同時に、宝冠や腰の石帯に見られる細やかな意匠は中国壇像のそれと相通ずるもので、これらによって中唐期の木彫様式を窺うこともできる。本像をはじめとする木彫群の登場が、わが国の木彫に影響を及ぼし、その後の発展に果たした役割は非常に大きいという。
中唐期は『中国の仏教美術』では762-826年とされていて、鑑真さんが来朝したよりも後になるんやけどなあ。 2 翻波式衣文が1本見られるもの 
薬師如来立像 木造 像高160.2 奈良時代(8世紀)
頭、体ともいちじるしく量感に富んだ力強い表現が示され、加えて衣文の構成は体躯の隆まりを強調するように下半身では両脚間に集中して刻出されている。こうした抑揚のはっきりした造形は、8世紀後半の中国中唐期の彫刻様式の影響を受けて、天平時代後期の木彫のうちに展開し、やがて平安時代初期壇像の表現に連なっている。また葺軸下の心棒まで共彫する技法や五尺五寸の像高など、神護寺本尊の薬師壇像にそのまま受け継がれているのが注目されるという。
この立像は鑑真和上像がガラスのケースの中に安置されている部屋の次の間に入ったところにあって、360度眺めることができた。そして、左腕の衣文線の中に1本だけだが翻波式衣文が表されてるのを見つけた。一般に翻波式衣文は、大きな襞と襞の間に浅く、或いは細く表される衣文をいうが、この像唯一の翻波式衣文は、他の襞とは方向も折り方も異なった突起線のように表されている。 3 浅く大きな翻波式衣文が数本見られるもの
獅子吼菩薩立像 木造 像高171.8㎝ 奈良時代(8世紀)
目鼻立ちを顔面中央に集めた厳しい面相、力強い広がりを示す正面の造形、重厚な量感表現、あるいは翻波式の衣文など平安前期木彫様式の先駆となる作風がすでに展開されているという。
解説に翻波式衣文という言葉が出てきた。本来の襞と襞の間が広いので、非常に浅い翻波式衣文になっていて、特に彫り出さなくてもとも思うが、少し離れて眺めると、翻波式衣文が立体感を増しているようだ。 4 浅い翻波式衣文があり、はっきりとした翻波式衣文がみられるもの
伝大自在王菩薩立像 木造 像高169.4㎝ 奈良時代(8世紀)
旧講堂木彫群中の一体で、現在の大自在王菩薩との呼称は本来のものではない。
衆宝王・獅子吼に見られた際だった唐風が、次第に日本的感覚で整えられつつあるとされる。本像は平安前期木彫様式の進展に重要な基盤をなした一連の唐招提寺奈良朝木彫群の多様性をうかがわせる作例としても注目される
という。
腹部の裙の折り返しに浅い翻波式衣文がある。そして天衣にも1本の翻波式衣文があるが、これは細いが今まで見てきた中では最も深い。 5 密集した衣文の間に1本ずつ翻波式衣文が見られるもの
如来立像 木造 像高154.0㎝ 平安時代(9世紀)
すらりと伸びた下半身や、胸や大腿部の滑らかな曲面に独特の表情がある。一方、着衣に刻まれた流麗な翻波式衣文が心地よいリズムを奏でており、像表面の線条的な階調によって、宗教的崇高感を醸し出そうとすることに作者のねらいがあったかと思われるという。
これが典型的な平安木彫の翻波式衣文だ。 そうそう、鑑真和上像には全く翻波式衣文が見られなかった。
鑑真和上像はこれらの木彫と異なって脱活乾漆で造られているので、唐の仏工ではなく、日本の仏工が造ったのではないだろうか。
膝をじっくりと見ていると、かなりでこぼこがあって、劣化が進んでいるようで、久しぶりに見た鑑真さんは痛々しかった。

関連項目

唐招提寺の四天王像

※参考文献
「国宝鑑真和上展図録」(2009年 TBS)
「天平」(1998年 奈良国立博物館)
「日本の仏像13 唐招提寺鑑真和上像と金堂」(2007年 講談社)
「中国の仏教美術」(久野美樹 1999年 東信堂)

2009/06/12

十輪院の石仏龕は本堂の奧

 
石仏龕は公開されていないのかとも思ったが、お堂の中で掃除機の音が聞こえてきたので、掃除中のおばさんに声を掛けると、左端からあがるように言われた。これが本堂だったのだ。 中に入っても本尊は見当たらない。中央が祭壇になっていて、その正面に行くと、向こうの方に石の仏龕が見えた。仏龕の中の地蔵菩薩が本尊らしい。石仏龕に近づくと、奧に造られた別の建物の中にあった。想像していたよりもずっと小さなものだった。
その前に座ると、先ほどのおばさんが説明を始めた。
何故十輪寺ではなく十輪院かというと、元興寺の塔頭だからです。
真ん中の地蔵菩薩が鎌倉初期に造られました。その後にお釈迦さんと弥勒さんが造られました。
最初は野ざらしでしたが、人々の信仰を集め、やがて上に屋根がかけられました。南側に礼堂として建てられたものが今の本堂です。
お釈迦さんと弥勒さんの外側にはわかりにくいですが四天王の2体が線刻されています。残りは龕の向こう側にあります。四天王の両端には仁王さんが線刻されています

というような話だったが、線刻は、そう言われればそのようなものかなあくらいにしかわからなかった。
おっちゃんは慶州の石窟庵みたいやなあと言っていたが、説明を聞いてますます石窟庵に似たものが日本にもあるなどと確信するに至った。時代は石窟庵のほうが遙かに古く、もちろん関連はありません。過去仏のお釈迦さんと未来仏の弥勒菩薩、現在仏の地蔵さんとで三世仏として信仰を集めましたという。
お地蔵さんの顔がええなあ。お釈迦さんは間延びがした顔で、弥勒菩薩はお釈迦さんと眉が似ているくらいで、肉付きのよい顔だ。三道も似ていない。しかし、右手や衣服の表現はよく似ているので、同時期に造られたのだろう。
弥勒さんは三道の下に瓔珞が見えるし宝冠も被っているので弥勒菩薩かと思ったが、お釈迦さんと同様偏袒右肩の衣服をまとっている。56億7千万年後に衆生を救済するために下生した姿の弥勒如来なのか、よくわからない。このあたりが、正式なお寺の本尊として造立されたのではなく、お地蔵さんの民衆の信仰から徐々にできあがった仏龕というのが頷けるなあ。  その弥勒さんのある側の壁面。『南都十輪院』は、地獄の冥官である十王、先霊の追福のためのための小型五輪塔という。慶州の石窟庵は当初は内部に入って如来坐像の周りを右遶してまわったのだろうが、この仏龕は内部が地蔵菩薩以外に空間がない。 昔は仏龕の周りをまわっていたので、傷みがひどく、現在では外側はみることができませんという。
当時の衆生は外側をまわっていたらしい。説明以上にいたみがひどく、バラバラに近い。『南都十輪院』で河原由雄氏は、かくてこの石龕は六道済度と極楽引導を期待する地蔵信仰を中核に、南都のさまざまな民間信仰を加味して作られたもので、これの制作は浮彫や線刻にみる、平安古仏の風格を温存する、鎌倉時代のはじめ頃とみとめられようという。
南都には東大寺・興福寺・元興寺など立派なお寺だらけなのに、そのようなお寺では一般民衆は救われなかったんやなあ。



関連項目

十輪院4 魚養塚
十輪院3 十三重塔は鎌倉時代
十輪院の庭にあるのは石仏

※参考文献
「南都十輪院」(十輪院発行)

2009/06/09

十輪院の庭にあるのは石仏

 
奈良の十輪院には石造の仏龕のようなものがあることは以前から知っていたが、やっと行く機会に恵まれた。
奈良町の狭い道を行くと南側に広い駐車場がある。その北側にあるはずのお寺の方は目立たない山門なので見逃しそうだった。
『南都十輪院』で今西良男氏は、比較的小規模な四脚門である。南門は本堂と同じ板軒にしているところから、鎌倉時代前期に建てられたと考えられるという。 くぐると目の前にあるのは小さなお堂。仏龕はどこか隅の方にあるのではないかと推測して、右側の庭をふと見ると、小さな池の前に蓮華でも育てているのか、水を張った鉢が並んでいる。こちらの鉢の下には、かつて大きな円柱を支えていたと思われる礎石があった。 仏龕を探して池の周りをいくと、小さな建物に不動明王が安置されていた。
『南都十輪院』で河原由雄氏は、高157㎝、怒りを押さえた表情、まるまるした姿態などに平安風の雅趣が看取され、地蔵石龕の浮彫像と彫技・彩色が相叫うという。
その「地蔵石龕」はどこ? 一つ鍵がかかった小さな箱のようなものがあったが、それだろうか。 石龕は見つけられなかったが、石造物はいろいろあった。
菩薩立像(高200㎝)は合掌形、眼鼻立ちの明快な菩薩像。下半身は多く破壊されているが、もと魚養塚外槨にあったという。
偏袒右肩の菩薩像というのがあるのだろうか。 なかなか良い十三重塔もあった。
復元高359㎝は、三層をなくしているが、建長3年(1253)の般若寺石塔と類似し、初層に四方四仏を刻み、内部に舎利や納入品のための孔をうがつという。
ふーん、般若寺のものと同じ時代に造られたものか。般若寺十三重塔はこちら 十輪院の十三重塔初層の四方仏は、般若寺の線刻のものに比べると、浮彫なので比較的分かり易いのだが、隅に置いてあるので、四方から見ることができなかった。特徴的なのは、体全体を包む光背がほぼ円形であることと、右手を肩に挙げる施無畏印であることだ。
般若寺十三重塔の初層の四方仏はこちら 石龕はどこ?

四方仏などについては慶州博物館の四面石仏は



関連項目
十輪院4 魚養塚
十輪院3 十三重塔は鎌倉時代
十輪院の石仏龕は本堂の奧

※参考文献
「南都十輪院」(十輪院発行)

2009/06/05

切手の石仏は下諏訪に


ふと見た封筒の切手に新羅の石仏のようなものが描かれていた。慶州北部にある掘仏寺(クルプルサ 굴불사)の四面石仏(サミョンソップル)南山の磨崖釈迦如来坐像が頭に浮かんだ。
しかし切手には「万治の石仏」と書いてある。そんな名前が新羅にあるのだろうか。
不思議なので調べてみると、下諏訪観光協会作成のページが見つかった。新羅仏ではなく日本のもので、しかも諏訪湖の近くにあることがわかった。

諏訪大社の春宮近くにあるらしい、地図はこちら。小さな橋を渡ると案内と旗があった。 階段の向こうにせ「万治の石仏」と彫られた石碑があり、その隣の立て札に、
峡の田に座して石仏のどかなり 正人
という俳句があった。田んぼの中に石仏? 

川沿いに歩いていくと灯籠と「万治の石仏」という旗が左右にあり、更に歩くと肩くらいまである畑の向こうに石仏が見えてきた。階段があったので、ちょっと入り込んで写す。その先に下諏訪町作成の説明板があった。
万治の石仏と伝説
南無阿弥陀仏万治3年(1660)11月1日
願主明誉浄光心誉廣春
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材利用にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れををなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっとている
という。
江戸初期のものだったのか。人の背丈くらいだがどっしりと重量感がある。新羅仏とは時代が全然違うし、像自体も違うが、親しみの持てる点では共通している。顔は飛鳥の大仏風かも。  四面石仏と異なり、右側面にも背面にも何も彫られていない。
左側面にも何も彫られていない。頭部が別の石を載せているのがよくわかる。このあたりも新羅の石仏に似ているなあ。石仏の周りがまるいのは、願い事を心で唱えながら時計回りに三周するためらしい。
山の斜面の狭い土地に切り開かれた田んぼは田植えが終わったばかりだった。

新羅の磨崖仏についてはこちらをどうぞ
2日目-8 掘仏寺(クルプルサ 굴불사)の四面石仏(サミョンソップル)を見に
3日目-6 磨崖釈迦如来坐像はあった

※参考サイト
下諏訪観光協会作成万治の石仏及びご案内図 

2009/06/02

アケメネス朝ペルシアの粒金細工はバクトリアへ


アケメネス朝ペルシアがアレクサンドロス大王に滅ぼされてから、粒金細工はどうなっていったのだろう。ペルシア近辺の地図はこちら
 
イヤリング 金 高3.3㎝幅2.8㎝ 前5~4世紀 
『古代バクトリア遺宝展図録』は、中央にエジプト起源の婦人の守護神ベスの顔面を配し、その周りに花弁状の象嵌用座金が放射状に巡り、下部には石榴形の垂飾を6個付けている。アケメネス朝時代にはベスの表現は、エジプトよりもペルシアで頻雑に見られる。この意匠はオクサス遺宝の四頭立て馬車の前面の装飾に見られるという。四頭立て馬車はこちら
粒金はイヤリングの輪郭に3粒ずつ付いているように見えるが、垂飾を見ると、3つの金の粒の上に1つのっているようだ。 ペンダント 高2.2㎝幅1.7㎝ 前4~2世紀
細粒で装飾された3個の多面体と2つの環でペンダントを作っているという。 
粒金だけで構成された面でないのは、透けていないことからわかる。地金に鑞付けしたのだろう。ところどころ1粒はずれている。それともないところを中心に周りに金の粒をめぐらして文様を作っているのかも。 イヤリング 金 高1.6-3.4㎝幅1.6-3.6㎝ 前3-2世紀
算盤珠状の連珠環に細粒の装飾を施し、開閉器を付けているという。
イヤリングの大きさからみても、金の粒はかなり小さい。このように立体的なものに金の粒を一列に巡らせていくのは、凹みとはいえ粒の大きさからするとかなり深いので、鑞付けの技術はかなり高かったのではないだろうか。 バクトリアについて、同展図録は、シリアとバクトリアにはギリシャ人とマケドニア人がかなり移住し、ギリシャ文化の有力な中心となった。バクトリアに最初のギリシャの植民地が開かれたのはアケメネス朝の時代であった。アレクサンダー大王は中央アジアへと進んだ。抵抗の中心地バクトリア、特にそれに隣接するソグディアナの地は、鎮圧された。アレクサンダー大王はギリシャの傭兵の地域をも植民地としたが、彼らは否応なしにその故地から何千マイルも離れた地に無理やり移住させられた人々であった。
アレクサンダー大王の死後、これらの植民の内2万名以上が蜂起し、ギリシャに帰ろうとしたが失敗に終わった。この数字だけでも植民の規模が窺える
というように、バクトリアはギリシア人が多く住む土地となった。
大王死後はセレウコス朝シリアの一部となり、前261年に独立、バクトリア王国となるが前192年に滅ぶ。そのようなとろに粒金細工は受け継がれていったのだ。
不思議なことに、アルサケス朝パルティアやサーサーン朝には見出すことができなかった。

※参考文献
「古代バクトリア遺宝展図録」(2002年 MIHO MUSEUM)
「ラルース 世界歴史地図」(ジョルジュ・デュルビー監修 1991年 株式会社ぎょうせい)