ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2009/07/21
ホッホドルフにケルトの大墳墓
ケルトの地にも木槨墓があった。
『古代王権の誕生Ⅲ』は、鉄器時代になると、ドイツの南部にハルシュタット文化後期のホッホドルフ古墳がある(前6世紀)。ハルシュタット文化後期の遺跡を残したのはケルト人と考えられているが、彼らの古墳はまず地表に木材を組み合わせて掘っ立小屋状の木槨墓室を造り、その上に土を盛り上げ、葺石で覆い、墳丘の裾を列石で囲み、墳丘の上に石人を立てるなど、スキタイ初期の古墳と構造が非常によく似ているという。
下図では、積石塚のように、石ばかりで墳丘をつくっているように見えてしまう。木槨墓室から推測するとスキタイ初期の古墳ほど直径は大きくないようだ。新羅の積石木槨墳よりも小さいかも。『ケルト人』は、ホッホドルフの墓は1978年まで無傷で保存されていたため、発掘時にさまざまな観察を行うことができた。
樫の丸太でつくられた墓室は一辺4.7m、床や壁には布が釘で打ち付けられ、衣の布はフィブラで留めてあったという。
墓室内を布で装飾するというのは今まで見てきた古墳にはなかったように思う。この図では天井がかなり低いように見える。収めたものの高さがあればよしとされたのだろうか。 40歳代の王は、当時としては長身で1.87mある。BC540年から520年のあいだに、その地位にふさわしい豪華な奉納物とともに埋葬された彼は、珍しく戦車ではなく、脚輪のついた青銅製の長椅子に横たわっていた。
この長椅子の場合、戦闘場面や戦車に乗った英雄の行進などが、青銅板に打ち出し細工で表されているという。
この写真では墓室はある程度の高さがありそうだが、ミダス王の木槨墓ほどには高くなさそうだ。 ケルト人がこのような石積の木槨墳を作るようになったのは、どこからの影響だろう。
『ケルト人』は、ケルト人が青銅器時代すでにヨーロッパに定着していた民族の末裔であることは、定説として認められている。BC13、12世紀、青銅器時代末期の墓には、その後のケルト王族の盛大な埋葬儀礼の先駆けとなるものがある。
バーデン=ヴュルテンベルク州キルフベルクの墳丘は、第一鉄器時代(BC8世紀半ば~6世紀末)のもので、頂上に砂岩製の彫刻が立つという。どうもケルト人は自分たちの歴史の流れの中で、慶州の積石木槨墳とよく似た墳墓を築くようになったらしい。
※参考文献
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」(角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店)
「知の再発見双書35ケルト人」(クリスチアーヌ・エリュエール 1994年 創元社)
「図説ケルトの歴史」(鶴岡真弓・松村一男 1999年 河出書房新社)