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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/05/14

鬼ノ城は版築と製鉄技術のある渡来系が造った?



ところで、一周してきた鬼ノ城は誰が造ったのだろうか。版築で土塁や城壁が造られているということは、外来の技術である。
『古代山城 鬼ノ城-展示ガイド』によると、古代山城は西日本に約30ヵ所が存在すると言われ、現在23ヵ所が確認されています。
このうち『日本書紀』などの歴史書に記載されている山城を「朝鮮式山城」と呼び、大野城・基肄城(きいじょう 667年)が知られています。
築城の背景には7世紀ごろにはじまる朝鮮半島の戦乱と関係しており、当時の朝廷が百済の亡命貴族を登用し、築城を指導させたことも知られています。一方、文献に載っていない山城を「神籠石系(こうごいしけい)山城」と呼び、鬼ノ城もその1つです。
だれが、いつ、どのような目的で築城されたかについては諸説があり謎の多い山城ですが、わが国の城としては最も古い可能性もあります。
神籠石系山城は、山城の立地や、城壁の取り巻き方から、九州型と瀬戸内型に分かれる
という。
尚、大野城は福岡県大野城市に築かれた山城(同市教育委員会作成の大野城跡に、基肄城は佐賀県基山町ホームページの基肄城跡詳しく出ています)。西門は版築の壁と、角柱や板などの木材でできている。西門近くに発掘調査した時のパネル(総社市教育委員会作成)があった。説明があり、西門跡はきわめて良好な状態で残っていました。
12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることができ、また通路床面の石敷や石段、敷石もよく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることができました。
そこでこれらの資料をもとに、関連資料を参考にし、戦闘の場としての機能を考慮して三階建ての城門に復元しています。一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は見張りや戦闘の場としての機能をもつものです。屋根は調査時にも瓦は出土していないので、板葺きにしています。
古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です
という。復元された版築の壁は薄い層が整然と並んでいる。 西門入口横の版築の層を見ると、思ったよりも厚いかも。トルファンの高昌故城の壁を思い出すなあ。またビジターセンターには鬼ノ城の模型だけでなく、写真パネルやいろんな展示があって、非常に参考になった。その1つが「上空から見た城壁のようす」だった。 下から見るとこの辺りだろうか。 この辺りには「水平に版築された層」 があったらしい。同書によると、土塁の基礎に列石を据えるのが特徴です。城壁は高さ5~7mもあり、7m前後の幅で築かれています。このような大きい城壁を造るために、版築工法と呼ばれる土木技術が用いられました。
版築工法とは、壁となる位置に型枠をつくり、内部に土を入れて一層ごとにつき固める工法を言います。版築はたいへんな労力を費やす作業ではありますが、その盛土は非常に硬く、発掘調査の作業では、しばしば鍬の先に火花が散るほどでした。
このような城壁を築くには、多量の土砂や石が使われ、多くの労働力が必要です。試算によると、延べ数十万人が動員されたと想定されます
という。下の写真を見なければ、カバーが掛けられた壁面が版築であったとこに気づかなかったし、列石にも気づかなかった。「踏み固め、つき固められた土の層」を見ると、中国の整然とした版築の層よりも、5世紀中葉~後半に築かれた新沢千塚221号墳の版築の層や、7世紀中葉創建の山田寺の金堂基壇に似ている。記録にないので鬼ノ城がいつ頃築かれたか確かなことは記述されていないが、時代背景から7世紀中葉~後半に築かれたようだ。
「版築層のはぎ取り位置」やはぎ取ったもの、そして土塁の「造りかた」なども参考になった。岡山の瀬戸内海に近い鬼ノ城は瀬戸内型ということだろうが、百済の亡命貴族を登用して造ったのが朝鮮式山城なら、瀬戸内型神籠石系山城は新羅などと考えるのは短絡的過ぎますわなあ。
屏風折れの石垣のところで、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し居住したという伝説が紹介されている。
また血吸川という名称も特異なので検索すると、おかやま観光案内に、吉備津彦命が放った2本の矢のうち1本が温羅の左目に命中し、温羅の目から噴き出す血で清流が真っ赤に染まったと言われる。温羅は血吸川を鯉となって逃げたが、鵜に変化した吉備津彦命に捕まり、ついに降参したという。
ほかに、血吸川上流域の遺跡群の「鉄鉱石での製鉄説」を全国に広げた遺跡で、鉄といえば「砂鉄によるかんな流し」と「タタラ」が以前の常識でした。しかしここ「千引かなくろ谷遺跡」の発見がこの常識を変えてしまったのです。ゴルフ場造成でみつかったこの遺跡、「ここで鉄鉱石の原石を溶かして精錬し荒鉄をつくったことがわかった」のです。鉄生産の初期は鉄鉱石が使われていた。日本最古の製鉄炉として、鉄生産の歴史が塗り変わったという。 
温羅が製鉄技術を持って百済以外の朝鮮半島から渡来し、血吸川の色は鉄さびの色というのはどうでしょう?

※参考文献
「古代山城 鬼ノ城-展示ガイド」(2005年 総社市教育委員会)

※参考サイト
福岡県大野城市教育委員会作成の大野城跡
佐賀県基山町ホームページの基肄城跡
おかやま観光案内の血吸川
血吸川上流域の遺跡群の「鉄鉱石での製鉄説」を全国に広げた遺跡